はじめての馬券購入②
そして、そこからさらに数十分後――
「よし! これでいくわ!」
「決まりましたか?」
「ええ。それにしても、最初は第五レースの馬券を買おうと思っていたけど、いろいろ説明を聞いているうちに第7レースになっちゃったわね」
熟考に熟考を重ねたあかりはようやく馬券の買い目を決めたのであった。
「それで、何番の馬を買うんですか?」
「ん~、③番の馬かな」
「あ~、いいですね。俺もこのレースはその馬がいちばん強いと思いますよ」
「やっぱり、宇高くんもそう思う? それで、買い目は決めたけど、馬券ってどうやって買うの?」
「はい。この馬券購入用のマークカードに書くんですよ」
そして、真嗣は競馬場内の各所に備え付けられているマークカードをあかりに渡す。
マークカードは紙幣ほどの大きさで、自分の買いたい券種や馬番、購入金額などを塗り潰すのだ。
「なんか、こんなふうにマークを塗りつぶしてくのって、テスト勉強みたいね」
「それで、そのマークカードとお金を券売機に入れたら、馬券は買えますから」
そして、マークカードを塗りつぶしたあかりは券売機に向かう。
「あれ? 宇高くん。券売機にマークカードが入らないんだけど?」
「ああ。それはマークカードより先にお金を入れないとダメなんですよ」
「そうなの? 普通、こういのってカードを先に入れて、その後にお金を要求するものじゃないの?」
「うーん。そこらへんは俺も詳しい事は分からないですけど、券売機での馬券購入の手順は昔からそうなんですよ」
「ふーん。そうなんだ」
そして、あかりは財布から1万円札を取り出して、券売機に投入する。さらに、そこからマークカードも続けて投入するのだった。
内部処理をしているので、券売機の中から読み取りの電子音が鳴り響く。
やがて、名刺サイズの紙が券売機の受け取り口にその姿を現すのだった。
「ふーん。馬券って思ったよりも厚みがあって、けっこういい紙を使ってるのね。まあ、偽造防止のためか」
そして、その馬券を手に取り、あかりはまじまじと見つめるのだった。
〝えっ……? ちょっと待て……!〟
しかし、その一連のあかりの行動を間近で見ていた真嗣は驚き、言葉を失っていたのだった。
たしか、あかりは券売機に1万円札を投入していた。ここまでは何も問題ない。真嗣も細かいお金がなかったのだろうとくらいに考えていた。
しかし、問題はその後だ。
機械の受け取り口から出てきたのはたった1枚の馬券のみ。おつりは1円も出てこなかった。
それの意味することは……
「あの、先生、その馬券、ちょっと見せてください!」
真嗣はあかりが購入した馬券を横から覗き見る真嗣。
そこには、馬名と共にあかりが購入した金額「10000円」がしっかりと明記されているのだった。
「先生、これ、買い間違いじゃないんですか?」
青ざめた顔で尋ねる真嗣。しかし、あかりは涼しい顔で逆に真嗣に訊き返す。
「へっ? なにが?」
「いや、だって、購入金額が1万円になっていますよ!」
「ああ、大丈夫よ」
大丈夫って、この先生はいったい何を根拠にこんな発言をしてくれちゃっているのだろうか。
「だって、宇高くんは子供の頃から競馬が好きで、実際にあれだけ詳しいんだし、わたしも1時間近く考えた末の結論なのよ。当たるに決まってるじゃない」
まるでこちらのほうが非常識な発言をしているのではないのかと錯覚してしまいそうな、あかりのあっけらかんとした発言に、真嗣は戸惑いを隠せなくなる。
「それに、この馬って一番人気で、新聞にも『◎』や『〇』の印がいっぱい付いてるじゃない。それに、この関係者のコメントに書いてるでしょ『状態は絶好調。不安材料はいっさい無い。万全だね』。そう言うくらいなんだから、そりゃあ楽勝でしょ?」
「いや、競馬ってそういうものじゃ……」
もちろん、1回のレースで馬券を1万円以上もの金額を費やす競馬ファンは珍しくない。しかし、それはあくまで何年も競馬をみてきた玄人が、その週におこなわれる何十レースのうちから「張れる」と確信した勝負レースだからだ。
あかりのような先程まで競馬の「け」の字も知らなかった初心者が、初手から万単位の金額をつぎ込むなんて聞いたことがない。
〝それに、先生のこの正気を疑いたくなるほどの自己への信頼感はなんなんだ? この不況のご時世に社会人になりたての女教師がいきなり1万円も賭けるなんて、まともな金銭感覚じゃないぞ〟
そういえば、クラスメイトが噂していたのを聞いたことがある。
あかりはどこぞの名家のお嬢さまで、大切に育てられた箱入り娘だそうだ。さらに、学生時代から才女で、勉学はもちろん。スポーツや芸術関係でもいくつもの入賞経験があるのだという。
その時は「へえ、そうなんだ」くらいにしか感じていなかったが、今のあかりのぶっ壊れた金銭感覚と根拠のない自信を見ると、納得してしまうのだった。
「レースはまであと10分か。たのしみね~❤」
しかし、あかりは指先に挟んだ馬券をヒラヒラさせながら、にこやかな笑みをつくる。
まるでもう勝った気でいるあかりだが、一般的に競馬における1番人気の勝率は30パーセント前後、つまり3回に2回は彼女が手にしている馬券は、購入金額1万円の紙くずと化すのだ。ちなみに、あかりが購入した馬券は単勝といい、選んだ1頭の馬が1着にならなければ、はずれになる
〝とりあえず、勝ってくれ! 俺の勧めで生まれて初めて馬券を買って、それで1万円を失うなんて気まずすぎる!〟
そして、先程まで憧れの女教師との談笑に心躍らせていた真嗣は、はやくも神に祈りたい心境になるのだった。
「ほら、宇高くん。レースが始まるわよ!」
あかりが場内に設置されている大型モニターを指し示す。競馬場を訪れた時は、真嗣は生で競走馬を見たいのでスタンドの最前列の立見席で観戦しているが、初心者のあかりにはこっちのほうが自分の買った馬の状況を把握しやすいだろうと思い、アナウンサーによる実況も流れるモニターでの観戦にすることにした。
昇降台に乗ったスターターが手旗をふり、モニターからファンファーレが鳴り響く。
「わたしの買った馬は③番だから、あの黒い帽子の馬を応援すればいいのよね?」
「は、はい。そうです……」
お気楽な顔をしているあかりとすでに神経をすり減らしている真嗣。 対照的な顔を晒している二人を余所に、レースはスタートするのであった。
あかりが買った③番の馬は好スタートを決めて、道中は2、3番手の好位置につける。
「あれ? わたしが買った馬、いちばん強いのにトップを走ってないけど大丈夫なの?」
「競馬は人間の100メートル走とかと違って最初から最後まで全力疾走する競技じゃないんで、大丈夫です。強い馬は直線に入るまでは最後方でも勝ちますから、あの位置取りでもまったく問題ないですよ」
そして、真嗣の言葉通り③番の馬は第四コーナーからグングンと加速していき、最後の直線の入り口で先頭に立つ。
「いっけー! そのまま、ぶっちぎっちゃえ!」
ここまでは思惑通りの展開になり、あかりは嬉々とした声をはずませる。
その声援に呼応するように③番の馬は2番手以下を突き放して、独走態勢に入るのだった。
あかりだけではなく、レースを観戦していた者たちの九割以上が③番の勝利を確信したその瞬間――
残り100メートルを切った地点で、大外から1頭の馬が猛追してきた。そして、あっというまに③番の馬を抜き去って1着でゴールするのであった。
〝そうそう。あの馬は、周囲に他の馬がいなくなると、途端に集中力をなくすタイプなんだよな〟
人間も人によって臆病だったり短気な性格の者がいるように、馬もその個体によってさまざまな性質を持っている。
そして、あかりが買った③番の馬は、前や横に他の馬がいる時は真面目に走るが、他馬が視界から消えると集中力をなくすという(専門用語でソラを使うという)クセを持っている。
〝騎手もそのクセを理解しているから、直線に入るまでの道中ではちゃんと他の馬を前に置いていたんだよな〟
そして、きっと直線に入ってからも早々に先頭に立たずに、もっとゆっくりと追い出すつもりだったのだろう。
しかし、騎手にとっては誤算だったのは、馬の調子があまりに良すぎたために想定よりも早く直線の序盤で先頭に立ってしまい、独走態勢に入ってしまった事だ。
それによって、周囲に他の馬がいなくなった③番の馬は集中力を切らしてしまい、最後の最後で奇襲を食らい2着に甘んじる結果となってしまった。
まったくもってついていない。
このレースの出場馬の中で最も強かったのは、③番の馬である事は間違いない。きっと10回レースをやったら9回くらいは、あの③番の馬が勝つはずだ。
せめて、このレースで初めて乗った騎手ではなく、前々からこの馬に乗り慣れていた騎手だったら、きっとまた違った結果になっただろう――。
きっと午前中までの真嗣だったら、平然とした顔で、このレースをそう回顧していただろう。
しかし、今は、その10分の1の不運によって生まれて初めて購入した馬券がハズレてしまった人間が目の前にいるのだ。