再び藤井家へ
ああ。ありがとう。俺は今、空港についたから。それじゃあな」
多くの人が行き交う空港のターミナル内で真嗣は大きなキャリーバックを転がしながら、スマホで電話をしているのだった。
そして、通話を打ち切ると、足早に建物の外に出るのだった。
〝ここからでも、1時間半もあれば行けるよな〟
そこから、久しぶりに地元に帰ってきたにもかかわらず、真嗣は自宅にも戻らず。ある場所を目指す。
大きな瓦屋根の門扉とその奥に存在する純和風建築。空港からモノレールと私鉄を乗り継ぎ、真嗣が向かったのは、あかりの実家だった。
「なんや、あんたは?」
門前で坊主頭の使用人と押し問答をしていた真嗣。その騒ぎを聞きつけたのだろう、ゆかりが姿を現すのであった。
「今日はアポもなく尋ねて申し訳ありません。1時間だけでも、時間を頂けませんか?」
坊主頭の制止を振り切り、ゆかりにアピールする真嗣。
「この前みたいに、あかりに教師を辞めさせないでほしいって話やったら、お断りやで」
「違います。今日は買って頂きたいものがあって、こちらに参りました」
「ふぅん」
値踏みをするような視線で真嗣を睥睨するゆかり。それは、思わず顔を背けてしまいそうな威圧感に溢れていたが、真嗣は視線をはずさずゆかりの顔を見据えるのだった。
「まあ、ええやろ。それやったら、中に上がりなはれ」
「はい!」
そして、藤井邸に上がった真嗣は、再び応接室に招かれるのであった。
ソファーに座り、ガラステーブルを挟み、一対一で向かい合う真嗣とゆかり。
「それで、うちに買ってほしいもんちゅうのは何や?」
「これです」
真嗣は封筒から数枚の写真を取り出す。
そこには、1頭のサラブレッドをさまざまな角度から映し出されていた。そのサラブレッドは、青鹿毛と呼ばれるもっとも黒く見える毛色で、左後ろ脚だけが白い模様がかかっている。昼間の放牧地で撮られた写真なので、陽光を全身で浴びたその体毛と皮膚は濡れた烏のように黒光りしているのだった。
その隆々と盛り上がった胴回りの筋肉と極限まで細く軽量化された四肢は、過酷のレースを勝ち抜くために産み育てられた、まさに疾さという名の純粋生命体にふさわしい佇まいだった。
しかし、この写真のサラブレッドはまだデビュー前のものだった。もちろん、生まれたばかりの仔馬のような未成熟な弱々しさはないものの、見るべき者が見れば、ひと目でまだレースに出た事がない馬だという事が分かる。
「綺麗な馬やなぁ……」
感嘆の声をあげるゆかり。すかさず紳士的な口調で真嗣は提案する。
「聞くところによると、ご主人は知人の方に誘われて馬主になる事を検討されているようですよね? それだったら、こちらの馬を購入しませんか?」
すると、それまで写真のサラブレッドの美しさに顔をほころばせていたゆかりの顔が引き締まり、眼光に凄みが帯びる。
「たしかに、うちはこの馬を褒めた。けどな、それでも実際に馬主として買うかは別や。馬は犬猫と違(ちご)うて安い買いもんちゃう。投資や。単刀直入に言って、この馬は元が取れるほど、走るんか?」
「走ります!」
淀みない口調で真嗣は断言する。
「この馬は、近い将来、すべての競馬ファンに名前を覚えてもらえるような素質を秘めた馬です」
「えらい大口を叩きよるなぁ……。けど、まったく実のないハッタリやデタラメっちゅうわけやなさそうやな。何を根拠にそこまで強気になれるんや。説明してみぃ」
「豪山ファームという牧場はご存知ですか?」
「うちはそこまで競馬に詳しいわけやないけど、それくらいは知っとるわ。この前の天皇賞でも勝ち馬を出しとった、日本一の大牧場やろ」
「じつは、俺の祖父はその豪山ファームで働いていて、俺自身も2年前まで豪山ファームの敷地内で暮らしていたので独自のツテがあります。この馬はその日本一の豪山ファームでもずば抜けて天才的な相馬眼を持つ人物が選び、太鼓判を押してもらった馬なんです。だから、絶対に走ります!」
真嗣がなぜ学校を1週間以上も学校を休んで、地元を離れていたのか。それは、カレンに頼んで、確実に走ると断言できるような素質を秘めた馬を日本中の牧場から探してもらったからだ。
コブシに力を込めて、力説する真嗣。
しかし、ゆかりは白けたような表情で、醒めた息を吐きだすのであった。
「あのなぁ。ウチかてサラブレッドの値段の相場くらい知っとる。大きなレースに勝つ馬なんて何千万もするんやろ。たしか、この前の天皇賞を勝った豪山ファームの馬も取引価格は一億円以上してたはずや。
そして、競馬の世界ではその価格帯で取引される馬も決して珍しくはない。ましてや、この馬はその豪山ファームの目利きのお墨付き。それこそ、目玉が飛び出るほど高いんやろ?」
「いえ、そんな事はありません」
不敵な笑みを漏らす真嗣。
「たしかに、ゆかりさんが仰ったように、豪山ファームの良血馬なら、一般サラリーマンの生涯収入に匹敵するくらいの価格で取引される馬も存在します。でも、この馬は違います」
「ほう。いくらや?」
「具体的な金額はこれからの交渉次第になりますが、100万円くらいになると思います」
「100万やとッ?」
驚き、声を跳ねさせるゆかり。
「それは、いくらなんでも安すぎるんやないか?」
そして、なかば裏返った声で真嗣に問い質すのであった。
「はい。たしかに格安です。でも、この馬は豪山ファームのような北海道の大牧場ではなく、九州の小さな牧場で生産されました。だから、この価格で提供できるんです」
馬産地の本場は言わずと知れた北海道で、それ以外の地域で生産されたサラブレッドは割にも満たない。しかも、この馬はその九州の牧場でも、買い手がつかずに売れ残っているような馬なのだ。
「ふうん。相場よりも安い馬で初期投資が抑えられる分、これから馬主を始めようとするウチの亭主にはおすすめっちゅうわけか」
「はい。でも、理由は資金面だけじゃりあません」
「どういうことや?」
「はい。ゆかりさんの夫である彰さんは、先代から会社を引き継いだ時、他の大人たちに見捨てられた不良やひきこもりの少年などを周囲の人たちの反対を押し切り、多く雇い入れたとお聞きしました。そして、結果的にはそういった社会からはみ出した者たちに活躍の場を与えたことで、結束は強まり会社が大きく発展していったんですよね?
この馬もそうです。競馬はブラッドスポーツと称されるくらい血統が重要視されますが、この馬は両親ともに大きなレースに勝ったことがなく、二歳になった今でも買い手がつかずに売れ残っているような状況です。同世代の良血馬は、とっくの昔に買い手がみつかり、競馬場でのレースデビューに目指している時期にもかかわらずです。しかも、馬産地の本場ではない九州の小さな牧場の生まれ。言葉は悪いですが『落ちこぼれ』というべき存在です。
時には鉄拳制裁も辞さない激しい気性でありながらも、一度、社員として迎え入れた若者は家族として接し、どんな事があっても決して見捨てることはない――。だから、今でも多くの社員に『オヤジ』や『おやっさん』などと慕われ、その経営哲学がマスコミに大きく取り上げられている。
そんな、彰さんが『おちこぼれ』の九州産馬を買って馬主となり、大レースを制するという、自身の経営哲学を彷彿させる美談をマスコミが放っておくわけがありません。絶対に会社と本人のイメージアップにもなります!」
ただ大きなレースで勝てるような強い馬ならば、豪山ファームの生産馬の中から探すのが最も手っ取り早い。しかし、それでは意味がない。
ファンが競馬に熱狂するのは、その馬の持つ血統背景、騎手や調教師の人間ドラマに夢中になりたいからであって、資本力がモノをいうマネーゲームが見たいわけではないのだ。
事実、海外を含むGⅠレースを複数回制するような強い馬は過去に何頭もいたが、競馬ブームを呼ばれるほどのファンの熱狂的な支持を得た競走馬は、日本競馬の歴史上たった2頭しか存在しない。
そして、その2頭は、いわゆるエリートと呼ばれる存在ではなかった。
農林水産省が管轄する「中央競馬」の出身ではなく、地方自治体が主催する「地方競馬」出身の馬たちなのだ。地方出身の雑草が、中央のエリートたちとしのぎを削り、成り上がっていくサクセスストーリーにかつて多くの競馬ファンは虜になった。
そういった意味では、この馬の生い立ちと彰の経営哲学は天の配剤としか言いようがなかった。
ただ、その分、カレンにはかなりの負担をしいたのは言うまでもない。
なにせ、大きなレースに勝つことができるくらい素質を秘めた馬だけでも充分ハードルが高いのに、そこからさらに真嗣が要求した条件は血統もよくなく、関係者からもたいして期待されてないというものだったのだから。
さすがのカレンも最初は「オマエはバカか? むちゃ言うな!」「そんな都合のいい馬、この世にいるか!」などと、ボロカスに言ってきた。
しかし、このままではあかりが教師をやめなければならない事情を説明すると、「むう。仕方がないのだ。あかりんのために一肌脱いでやるのだ。でも、条件が条件だから、あんまり期待はするなよ」と力を貸してくれたのだった(正直、なぜカレンがあかりにここまでの恩義を感じているのかは、よく分からないが)。
そして、実際にこの馬の発掘は困難を極めた。なにせ、真嗣たちは最初から九州の牧場をターゲットにしていたわけではなく、北海道のめぼしい中小の牧場をあらかた巡ったが、カレンの眼鏡にかなう馬が存在せず、仕方がなく馬産地の本場ではない九州まで足を運んだというのが実情だったのだから。
「おい、真嗣。オマエは本当に運がいいのだ。この馬、今は誰からも見向きもされてないが、確実に走るぞ」初めてカレンがこの馬を見た時の瞳の輝きは今でも忘れられない。なにせ、北海道の牧場をめぐっていた時からカレンは即決・即断。9割以上は「ダメなのだ。話にならないのだ」と馬体を一瞥しただけで却下の連続。残りの1割に満たない馬も実際に歩様などを見せてもらうと「トモ(後ろ脚)の筋肉のつきかたにドーンと来るようなオーラがないのだ」「腰回りにバランスの良さとふんわりとした軽やかさを感じられないのだ」「戦う馬の目つきじゃないのだ」という抽象的かつ擬音を多用した評価で一蹴。結局メガネにはかなわなかったのだから(ちなみに、カレンが実際に走っているところを見せてほしいという頼んだ馬は、九州の牧場を巡ってからはこの馬が初めてだった。それだけでも、この馬の「突然変異」さが窺い知れるのであった)。
正直、10年かけても不発に終わる可能性が高かった今回の旅が、たった十日ほどで終わったのは、まさに奇蹟と言っていいほどの幸運としか言いようがない。真嗣は今後の人生の分の運の良さも今回の件ですべて使い果たしてしまったのではないのかと本気で心配しているほどだ。
「まあ、たしかに安いと言えば、安いわなぁ」
しかし、ゆかりはすで興味を失くしたような冷めた声音で馬の写真をテーブルの上に置く。
「たしかに、相場よりも安い値段やったから驚いたけど、100万、200万なんて金額は道楽として考えれば普通に高い買い物や。そやけど、投資として考えた場合、儲かるという確証はなく、あんたの『この馬は走る』という言葉を一方的に信用するしかない。サラブレッドは買うたら、それで仕舞いやなくて、預託料が毎月かかるんやろ? それで走らんかったら、結局は安物買いの銭失いやないか」
「分かってます」
固い声で呟くと、真嗣はすっと銀行の預金通帳を取り出し、テーブルの上に置くのであった。
「この馬は俺が目利きしたわけではなりません。だけど、俺はこの馬を目利きした人間の相馬眼を誰よりも信用していますから、絶対に彰さんに損をさせない自信はあります。ですから、万が一、この馬が大成しなくて損失が出た場合はその全てを俺が補填します」
「なんやと……」
表情をほとんど変えずに平静を装っているが、声音が固くなり、目に見えてまばたきの回数が多くなるのが分かるほど驚くゆかり。
「あんた、本気か?」
ゆかりは通帳を手に取り、中身の金額を確かめる。
「本気です。俺はそれくらいの自信があります」
もちろん、真嗣はカレンの相馬眼を誰よりも信頼している。その言葉に嘘偽りはない。しかし、たとえ、どんな素質馬であったとしても不慮の事故や病気などは避けられないのは事実。100万という金額はサラブレッドの価格としては安いかもしれないが、高校生の真嗣からしたら、途方もない金額だ。
これは豪山ファームで実際にあった事例なのだが、数年前、とある良血の仔馬がセールで6億円という史上最高額で落札された。
この額を適正だと思うかどうかは、その人次第だ。現在、競馬に於ける世界最高額の1着賞金は1000万ドル(約13億円)で、ファンの記憶に残るような名馬ともなれば、その多くが生涯獲得賞金だけで10億円以上にもなるのだから。なによりも、その昔、「ダービー馬の馬主になる事は一国の宰相になることよりも難しい」と発言したイギリスの首相もいるくらいで、その名誉は金だけで買えるものではない。
しかし、その馬は残念ながら、落札価格である6億円分の賞金を稼ぐことはできなかった。それどころか、ただの一度も競馬場で走ることもなかった。なぜかというと、この馬が放牧地にいた時に雷が落ち、驚いた拍子に怪我をしてしまい、競争能力を喪失してしまったのである。
たった一発の雷鳴によって6億もの金が塵のように消えてしまう。もはや、悲劇を通り越して喜劇のような話だが、真嗣は笑えない。それほどまでにサラブレッドという存在は心身共に繊細なバランスの上で成り立っているのだから。
サラブレッドに……そして、競馬に絶対はないという事実を嫌と言うほど理解している真嗣があえて「絶対」などという言葉を使い自信を強調する理由――。それは、ここで少しでも弱気な姿勢をみせたら、あかりを救えないという確信があったからだ。
「損はさせません」
こんなにも水分がなくなるものなのか、と真嗣自身が驚くほど口の中は乾ききっていた。それでも、あえて自信を誇示するために、言葉を噛まないように、声を上擦らせないように堂々とした口調を崩さないように努力をする。
本当は今すぐにでも逃げ出したいほどの緊張と重圧のなか、真嗣は微動だにせず、ゆかりの眼を真正面から見据えるのだった。
「おもろいやないか」
しかめっ面だったゆかりの眉間が緩み、瞳の奥がほほえむ。
「そこまで言うんやったら、その馬、買うたろうやないか」
「ありがとうございます」
待ち望んでいた結末。それでも、真嗣は大袈裟に喜びを露わにしない。右コブシを強く握りしめるだけに留める。
「でも、この馬を購入して頂くにあたり、ひとつだけ条件があります」
「言わんでも分かっとる。あかりに教師を続けさせたらええんやろ」
「はい。よろしくお願いします」
この時になって初めて真嗣は安堵のため息をつき、胸を撫でおろすのであった。
「しかしなぁ……」
大きく息を吐き、天井を仰ぎ見るゆかり。
「あんた、しょせんは数多くいる教え子のひとりでしかないんやろ? なんで、そこまであかりに尽くしてくれるんや?」
「じつは、先生が競馬にハマっちゃったんは、俺のせいなんでですよ。先生が休みの日に競馬場に立ち寄った時に俺とぐうぜん遭遇して、そこで馬券を買うのを勧めたら、あんなふうになっちゃって。だから、それのせいで、先生が教師をやめることになったら、申し訳ないじゃないですか」
「それは、あかりの自制心の問題であって、あんたのせいやない。気に病むことはあらへん」
「ええ。たしかにそうなんですよ。実際、先生は俺が何度も注意にしても競馬している時のお酒をやめてくれないし、すぐに騎手や調教師の人たちに『ヘタクソ』とか『金返せ』って罵倒するし、拡大馬連で的中しても『配当が安い』って文句を言うくせに、馬連を買ってハズしたら『ワイドなら当たってた』って典型的な結果論で愚痴を言うし、挙句の果てには俺が必死になって知恵を絞り出したアドバイスよりもグリーンウェル矢野とかいう胡散臭い予想家の意見を鵜呑みにしちゃう本当にダメな大人なんですよ。
でも……先生って本当に楽しそうに競馬をするんですよ。負けたらいつもレース後は『八百長よ』『こんなレースを当ててるような人間はトータルで負ける』って負け惜しみを言ってるくせには、次の日にはケロッと忘れて、第一レースが始まるまでは遊園地に来ている子供みたいにワクワクを抑えきれないんですよ。そして、はしゃいでるのは競馬場にいる時だけじゃなくて、日曜日の終わりに次の週の特別レースの登録馬が発表された時、月曜日に出走馬のハンデが発表された時、週中に調教タイムや映像が発表された時、週末に枠順が決定した時、天気予報で土日に雨予報が出た時。本当に些細な事で一喜一憂して、飽きれるくらい毎日の生活が競馬中心に回ってるんですよね。最初のほうは、『とんでもない人に競馬を教えちゃったな』と思ってたんですけど、今ではそんなふうに心の底から楽しそうに競馬をしている先生を見ていると、俺もだんだん楽しくなって、過去にあった事とか全て忘れられるんですよ。だから、俺はあの人にはいつまでも競馬を好きで、楽しく馬券を買ってもらいたいんです」
そのまま、バツが悪そうに黙り込んでしまう真嗣。
「『競馬を好きでいてもらいたい……』か。まあ、そういう事にしといたるわ」
どこか呆れたような、しかし、やさしさを帯びた口調でゆかりは息を吐く。
「はい。ですから、今回の件で俺がいろいろやったことは先生に秘密しておいてほしいですよ。それで、変に気を遣わせたくないし」
「あんた、ホンマにお人よしやな。それでええんか?」
「はい」
「ああ、あと、あんたはこの馬が走らんかった時は、その枌尾損失は補填してくれる言うとけど、そんなんはいらんからな」
「いいんですか?」
「当たり前や。他人のゼニでギャンブルして何が楽しいねん。その代わりやけど、あんた、18になって結婚できるようになったら、あかりを貰ってくれへんか?」
突然の申し出に真嗣は腰が抜けそうになるほど驚く。
「なに言ってるんですか? 冗談でしょ?」
「そや。半分は冗談や。あんたがあまりにも表情を変えずに冷静に振る舞ってから、動揺させてみたかったんや。けど……うちの啖呵に対しては動じんかったくせに、あかりの事になるとあっさりと声が裏返るんやなぁ……」
そして、ゆかりは呆れたように大きく息を吐くのであった。