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伏兵

「ふざけんのも大概にしいや」


 声の主は彰の妻であり、あかりの母であるゆかりであった。

これまで、室内にいたものの、彰の隣でまるで置物のようにじっと動向を見守っていただけのゆかりが初めて声をあげる。 


 それは、不思議なほどに澄んだ、鐘の音のようによく通る美しい声だった。


 思わず、聞き惚れてしまう真嗣。しかし、そのいっぽうで彰は顔色を失い、紫色になった唇の奥で歯を鳴らす。


「あんたはあかりに見合いさせる言うたよなぁ? それやのに、さっそく吐いたツバ飲み込むようなマネさらすんか? ああぁっ?」


 そして、ゆかりは血走った目つきで彰の首根っこを掴み、野性の獣めいた迫力で詰問するのであった。


〝えええぇぇーーっ??〟


 先程までの、良妻賢母の見本であったゆかりの変貌に真嗣は驚きを隠せない。しかし、そんな真嗣たちに頓着する様子もなく、なおもゆかりは激しく彰を攻めたてるのだった。


「ええか。女の幸せっちゅうのは、愛する男を献身的に支える事や。女には学歴も手に職を必要ない。ただ慎み深く穏やかであれば、それでええんちゃうんかい?」


「は、はい。そのとおりです」


 まるで上官を前にした新兵のように背筋をただす彰。


「そうや。女はおしとやかに男の三歩後を歩くんが理想なんや!」


 そして、ゆかりはそう吐き捨てるのであった。

〝いや、いや、この人たち、自分たちのおこないと語っている理想が真逆じゃないか!〟


 女は慎み深く献身的に男を引き立てるのが理想だと語り、その理想を娘に実現させるために敬うべき相手である夫に対して声を荒げて恫喝する矛盾。


 しかし、世の中には、この手の、自らの理想を他人と世に知らしめるためなら、言行不一致になる事も厭わない人種は存在する。


 命の尊さを説くからこそ、中絶を容認する産婦人科医を殺害するカトリック信者などその典型例だ。本人だけが、その大いなる矛盾に気づいていない。 

そして、隣でその巨体を丸めて仔犬のように震えている彰を余所に、ゆかりは剣呑な瞳で昂子を睨みつける。真嗣は藤井家の家庭環境を知った時、競馬をしている時のあかりが教壇に立っている時とは違って恐ろしく口汚くなるのは、生まれ持った性情ではなく環境のせいだと思っていた。両親にとって理想である古風な女性像を求められたせいで抑圧され、そのストレスと重圧の発露としての変貌――。しかし、事実は違った。普段は清楚なあかりが、特定の条件でスイッチが入りプッツンしてしまうのは、完全にゆかりのこの性格を受け継いだ「遺伝」だという事を改めて実感するのであった。


「だいたいなぁ、あんたはこんな小娘の三文芝居に騙されよってからに、情けない。この女はあかりの生徒ちゃうでぇ!」


「な、なに言ってるの、小母さま。そんな酷いこと言わないでほしいみたいな~。あーしは藤井先生の教え子だよ~」


 冷や汗をかきながらも昂子はとぼける。しかし、ゆかりは即座にその反論を封殺するのであった。


「とぼけんのもええ加減しいや。あんた、この前の競馬場でそこの坊主の隣におって、その時にあかりと一緒に馬券も()うてたやろ。成人済みのくせして、うちの主人をたぶかすために学生服なんか着よってからに。それとも、未成年のくせして馬券を買うてたんか? そんな不良娘の言うこと誰が信用できんねん! ああぁっ?」


 あの場に真嗣と昂子がいた事すら覚えていなかった彰に対して、ゆかりはちゃんとあかりの交友関係を把握していたようだ。しかも、昂子が馬券を買っていたのも見逃さない目敏さで。


 さすがに、そこまで言及されたら昂子も白旗を上げるしかない。自分が騙されていたことを知りショックを受けている彰のはす向かいで、完全に諦めた表情で肩をすくめるのであった。


 頼みの綱である昂子の演技も見破られ、万策尽きてしまった真嗣たち。


 このままではあかりは本当に学校をやめなければならない。それだけは回避しなければならないと思った真嗣はソファーから降りて、ゆかりの前で身体を屈する。


「騙していた事は謝ります! でも、俺たちは本当に藤井先生に教師を続けてもらいたいんです!」

そして、畳に額をこすりつけて土下座をするのだった。

こんなことをしても、九分九厘、無駄なのは頭の奥の冷めた場所では理解していた。それでも、この方法以外の術を思いつかなかった真嗣は必死になって頭を下げ続けるのであった。


「そうか。あかりのために土下座までしてくれるんか」


 しかし、ゆかりの口から漏れる言葉の響きは、先程までと違って慈母のようなやさしさに満ちたものだった。


「そこもでしてくれるんやったら、考え直さなアカンなぁ……」


 ふぅーと大きく息を吐き、おだやかな表情をみせるゆかり。


 しかし、次の瞬間、大気の質は一変する。


 そして、ゆかりは着物の裾から生足をさらけだし、ダン! と大きな音を立てて背の低いガラステーブルを踏みつけるのであった。その立ち振る舞いと迫力ある物言いは完全に極道の姐さんである。


「そんな、あまっちょろい事をウチが言うとでも思うとんのか? 坊主。世の中、なめんなや」


 そして、自らの胸元に手を突っ込むと、ガラステーブルの上に着物の中から取り出した数枚の写真を広げて見せつけるのだった。


「この写真は、ウチがあかりの見合相手に考えていた男の写真や。高校生(ガキ)のあんたから見たら『こんなおっさんと結婚させるのか』って思えるような年齢の男もおるやろう。けどな、ここにおるんは男らは、社会的地位や人望や財力……そういったもので、自分の大切なモノを守る事のできる人間や。そこが、土下座しか出来へんあんたとの決定的な違いや。うちの亭主かてそうや。世間の人間は『老害』や『女の敵』やと言うとるが、今まで何度もあった不況の時も従業員のクビを誰ひとり切ることなく、ここまで会社を大きくしてウチやあかりを守ってくれた自慢の旦那や」 


 ふんと大きく鼻を鳴らすゆかり。そして、憐れむような目つきで真嗣を一瞥すると冷淡に言い放つのであった。


「ええか。いくら、あんたが困ってるのをアピールしたところで、助けてくれるのはあんたの親くらいや。しょせん世間は他人。情に訴えたところで誰も手を差し伸べてはくれん。大事なモノは守られへん。それが理解できてへんあんたはしょせん世間知らずのガキなんや。それが分かったんなら、大人の世界の話に首を突っ込むんやない」

 



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