説得
応接間は八畳ほどの和室。向かい合うように配置されたウォーターヒヤシンスのソファー。そして、そのあいだには背の低いガラステーブルが鎮座しているのだった。さらに、そのテーブルとソファーの下には、和室の景観を乱さないカラーリングのマットが敷かれている。。
真嗣たちがソファーに座って待っていると、障子が開く。
「粗茶です」
お茶と菓子を持って、着物姿のひとりの女性が現れる。真嗣も昂子も彼女のことは知っている。なにせ、天皇賞当日の競馬場で、あかりの父である彰の隣にいたのが彼女なのだから。
競馬場で初めてみた瞬間、その目鼻だちがあまりに酷似していたため、真嗣は直感的にあかりの姉だと思った。だから、あかりが彼女の顔を見て「母さん」と言った時は心の底から驚いた。
聞くところによると、彼女……藤井ゆかりがあかりを生んだのは十九歳の時なのだという。しかも、それでいて彼女自身の容姿が実年齢よりもはるかに若く見えるのだから、真嗣が姉だと間違えるのも無理はないのだった。
〝この人、自宅でも着物を着てるんだ〟
あの時は競馬場の馬主席という改まった場だから、着物を着ているのだと思っていたが、どうやら普段から着物を愛用しているようだ。
纏め上げられた黒髪は濡れた墨のようにしっとりとした光沢に満ちてあり、そこから見えるうなじはまるで真珠のような白さだ。
それでいて、淫らな色香を感じさせないのは、まっすぐに伸びた背筋を始め、彼女の凛とした佇まいと所作のなせる業なのだろう。そして、真嗣は競馬場で手づくり弁当を食べた時に、あかりが母親から料理を教わったと発言していたのを思い出す。
慎み深く、細やかな気遣いで夫を引き立てる――。なるほど、あかりの父が理想とする大和なでしこというものは、きっと彼女を基準にしているのだろう。
やがて、応接間前の板張りの廊下が軋む音が聞こえる。そして、ゆっくりと障子が開かれて、あかりの父である彰が姿を現すのであった。
〝やっぱり、おそろしくデカいな〟
おそらく、その身長は190センチを超えているだろう。しかも、それだけではなく肩幅は真嗣の2倍くらいはありそうな勢いで、服の上からでも分かるくらいの全身筋肉の塊。その風貌だけ見れば、建設会社の社長ではなくプロレスラーやウエイトリフティングの選手のようなぶ厚い体躯をしている。
そして、彰はまるで胡散臭い品物を値踏みするかのような目つきで真嗣と昂子を睥睨するのであった。
その底光りする眼下から放たれる視線、全身から放たれる獣のような威圧感だけで真嗣の背中には粘度の高い汗が流れ、口の中の水分が一瞬で蒸発してしまいそうになる。
しかし、ここで退いたらあかりは教師をやめなければならない――自分にそう言い聞かせて、真嗣はカラカラに乾いた口から言葉を絞り出す。
「今日はお忙しいなか、突然おしかけて大変申し訳ございませんでした」
そして、ソファーから立ち上がり、頭を下げると昂子もそれに続くのであった。
「うむ」
真嗣たちの対面、妻であるゆかりも座っているソファーに腰を下ろす彰。
「それで、今日は何の用や?」
そして、ぶっきらぼうにそう関西弁で言い放つのであった。
「今日はあかりさん……藤井先生のことで話を聞いてもらいたくて、伺わせてもらいました」
「ふん……」
「単刀直入に申し上げます。藤井先生に教師を続けさせてください。お願いします!」
「あかりはそんな事まで生徒に話しとるんか」
「それは俺があの時に競馬場にいたから、事情を話してくれただけです。他の生徒には話していません」
「あの場におったんやったら分かっとるやろう。嫁入り前の娘が公衆の面前で汚い言葉遣いで目を血走らせて、あまつさえ親に対して暴言を吐く始末。わしも親として娘のあんな醜態を看過させられるか! 今すぐあかりは見合い結婚させる! ええか。ワシの家内をみてみぃ! 慎み深く、内助の功でワシを支えてくれとる。それが女の幸せなんや。あかりにはそういった女になってほしいんや!」
「で、でも、今は俺たちふたりが代表として来ていますけど、藤井先生が教師をやめるとなると、クラスのみんなも悲しがります。お願いします。どうか考え直してもらえませんか?」
そして、真嗣は学校でのあかりは競馬場の時のような言動をいっさい見せないこと。授業中は生徒ひとりひとりに目配りができ、丁寧かつ分かりやすい説明で生徒たちから信頼されていること。それでいて、雑談の時などでは人を傷つけない品あるユーモアを口にして、普段の上品な振る舞いもあって男子たちだけではなく、女子生徒たちからも憧れ的になっていることを熱弁するのだった。
「お願いです。まだ赴任して一か月ほどしか経っていませんけど、俺たちにとって藤井先生がなくてはならない先生なんです」
「ふん……」
しかし、鼻息を鳴らして憮然とした表情を崩さない彰。
〝ダメなのか……?〟
まるで穴の開いた器に水を注ぐような手応えのなさに、真嗣は沈鬱に顔をうつむかせる。
そして、どうしようもなく気まずい沈黙に場が支配されるのだった。
「そんなに、あかりは生徒たちから慕われとるんか?」
再び口を開いたのは意外にも彰のほうだった。
「へっ……?」
聞き返す真嗣。
「そやから、あかりの普段の仕事ぶりはどうなんや、と訊いとるんや」
「は、はい」
そして、真嗣は先程と同じく、あかりがいかにクラスの者たちに慕われており、辞めるとなると寂しがる者も大勢いる事を訴えた。
しかし、それは彰に翻意を促すための方便ではない。競馬をやっていない時、学校でのあかりは生徒たちからはもちろん同僚の教師たちからも評価の高い女性なのだから。
真嗣の熱弁を聞いている時も、彰は相変わらずの仏頂面。しかし、あきらかに先程までの敵意や不機嫌な雰囲気は薄まってきているのをひしひしと感じるのであった。
そこで初めて真嗣は気づく。
たしかに父・彰にとって、自らの意志に反してあかりが教師の職を選んだのは不本意以外の何物ではない。
しかし、だからといって、手塩にかけて育てた愛娘であるあかりの職場での評価は気になるし、わざわざ生徒が直談判しに実家まで押しかけてきた今の状況を、喜ばしく思わないわけがない。
その事実に気がついた時、真嗣と昂子はお互いに目配せをするのだった。
すると、次の瞬間。
昂子の瞳の表面に透明な膜がふくれあがる。それはみるみるうちに大きくなり、ついには重力の耐えきれなくなり頬に伝い落ちるのだった。
その唐突の落涙に、真嗣と彰は驚きを隠せない。
しかし、完全に虚を衝かれた真嗣を余所に、まるで転んだ痛みに耐えきれない幼子のように昂子はしゃくりをあげる。
「おね……がい。あーし、から……藤井……せんせいを奪わないでぇ……」
そして、途切れ途切れの声で涙ながらに訴えるのだった。
年齢を問わず、男は女性の涙には弱いもの。それは既婚者とて例外ではない。彰は昂子に事情を尋ねる。
「あーし、見てのとおり、頭の悪いギャルで、今の学校だってギリギリ合格。先生たちからは、このままじゃあ留年確実って言われたような落ちこぼれなんです。でも、藤井先生だけは落ちこぼれのあーしに対しても熱心に勉強を教えてくれて、放課後の忙しい時や休日の時間を削ってくれたんです。他の先生たちからは見捨てられていたあーしに努力の大切さや諦めない心を教えてくれた恩人なんです。だから、そんな、あーしから藤井先生を奪わないでぇ……」
架空の設定を創り出し、偽りのあかりとの絆を滔々と語りだす昂子。
しかし、その美談はあまりにも安っぽく、演技も大仰すぎるので真嗣はバレやしないか心配になるのだった。
「そ、そうか。あかりは教師になって、そんな事をしていたんか……」
しかし、彰は完全に昂子のウソを信じきっているようだ。その声音には感動に近い感情がこもっている。
街でたむろしている不良や学校に居場所がないひきもりなど、いわゆる世間から落ちこぼれた若者の多くを自分の会社に雇い入れたというエピソードが示すとおり、基本的に彰は情に厚く、人から頼りにされると黙って見過ごすことが出来ない典型的な親分肌の性格なのだろう。
それだけに、愛娘であるあかりが自らと同じ行動原理で職務をまっとうしていると知れば、無下にできないのは当然と言えば当然である。
真嗣はつくづく思い知る。人がウソを信じきってしまうのは、接合性があるからではない。そのウソが自らにとって都合が良く、耳障りがいいからこそ簡単に騙されてしまうのだ。
「藤井先生は言ってました。自分には目標としている人がいて、その人のようになりたいから、あーしのような落ちこぼれも絶対に見捨てないって……」
そして、トドメと言わんばかりにあかりが彰に対して憧れを抱いていることを示唆するような言葉を述べる昂子。その瞳からはそれはそれは宝石のように綺麗な涙がポロポロと頬を伝い落ちるのであった(それと同時に、真嗣は今後、昂子の涙を見ても簡単に信用しないように心に誓うのであった)。
「あかりはそないな事を言っていたんか……」
感激に打ち震えている彰。ここまで来れば、もう陥落は時間の問題である。
「よし。ようわかった。そこまで言うんやったら……」
そのひとことに大願成就を予感して、お互いに顔を見合わせる真嗣と昂子。
しかし……
「あんた、ええかげんにしいや……」
そのとき、昂子でもなければ真嗣でもなく、ましてや彰でもない静かな声音が場の空気を一変させる。それは、まるで黄泉の底から吹く風のように、真嗣に不吉さを感じさせるのであった。