暗雲
そして、数十分後。いざ、レースが終わってみると……
「なんで、わたしが削った3頭のうちに1頭が来ちゃうの……?」
頭を抱えこみながらしゃがみ込むあかり。あかりの軸馬は2着に残ったものの、曰く『これはさすがに来ないだろう』と思って買い目に入れなかった馬が3着に入り、みごとに馬券を取り逃してしまうのであった。
先程と同じように複勝を買っていれば普通に的中していただけに、昂子の万馬券的中に目が眩んで欲の皮がつっぱった買いかたをしてしまった結果がこれである。
「もういい! 次よ! 次!」
ハズレ馬券を強く握りしめた後、手で細かくちぎって破り捨てるあかり。
〝まずいな。先生、だいぶイライラしてるぞ〟
普通にゴミ箱に捨てればいいだけなのに、馬券を強く握りしめた後にわざわざ手で細かくちぎるのは、ストレスが溜まっている時のあかりの危険信号。このまま負けが込んでくると、アルコールに手を伸ばすのも時間の問題である。
「カレン、ちょっといいか?」
「なんなのだ?」
「次のレース、パドックに行って、馬券内に来そうな馬を俺のスマホに送ってくれないか?」
「わざわざそんな事しなくても、来そうな馬くらいカレンちゃんが直接あかりんに教えてやるぞ」
「それだと、いくら馬券を的中しても、先生に『自分で馬券を当てた』という達成感が生まれないからダメなんだ。俺に来そうな馬を教えてくれれば、アドバイスという体を装って買い目を誘導させるから」
「それって、あかりんにバレたりしないのか?」
「大丈夫だ。あの先生は普段は生徒のちょっとしか変化も察知できるくらい教師としては目敏いのに、 なぜか、競馬の事に関してだけは著しくIQが低下する人だから絶対にバレない。だから、頼む!」
「カレンちゃんはこれから色んなところに挨拶に行かないといけないのだ。忙しいのだ。ヒマじゃないのだ」
「そこをなんとか頼む」
「むぅ……仕方がないのだ。パドックに行って来てやるのだ。感謝するのだ」
「すまん」
そして、次のレース、真嗣はカレンがパドックでの馬体診断で選び抜いた1頭をあかりに推奨するのだった。
「いけー! そのままちぎっちゃえー!」
神がかり的な相馬眼を持つカレンに選んでもらった渾身の1頭だっただけに、あかりの買った馬は絶好の手応えで直線に入る。
現在は4番手だが、3着以内はもちろん、1着だって充分に狙える脚色に真嗣は安堵のため息をつく。
しかし、次の瞬間。直線なかばであかりの買った馬は、内に進路変更するのだった。
「「「あっ……」」」
異口同音に間の抜けた呟きをもらす真嗣、昂子、カレンの3人。
あかりの買った馬は、同じく直線で脚を伸ばしていた内側の馬と接触。接触された馬はさらに内側にいたもう1頭の馬と挟まれる形となってしまい、減速してしまうのだった。
その後、あかりの買った馬はそのまま先頭に立ち、ゴール板を駆け抜ける。
そして、その半馬身差ほど後に、接触された馬を含む2頭と大外から伸びてきた1頭が、ほぼ同時にゴールするのだった。
「やった~! 単勝ゲットーッ!」
菓子を手にした子供のような大きな声で喜びをあらわにするあかり。
しかし、その反面、真嗣と昂子のふたりは苦虫を噛みつぶしたような表情で顔を伏せていた。
「わたしが本気になれば、こんなものよ! 正義は勝つ!」
あかりがはしゃげばはしゃぐほど、気まずい沈黙が真嗣と昂子のあいだに流れる。やがて、そんな重苦しい空気に耐えかねたのか、昂子は自らのヒジで真嗣の脇腹をつつき、「説明してあげて」とささやくのであった。
渋々と、気が進まない足取りでいあかりのもとに歩み寄る真嗣。
「あの、先生、まだレースの着順は確定していないから、そんなにもはしゃがないほうがいいですよ」
「なに言ってるの。宇高くん。たしかに写真判定をしていて着順は確定してはいないけど、それは2着から4着まででしょ? わたしの買った馬は1着でゴールしてるから関係なし! 大当たり、あざーす、ってなもんよ」
「いえ、そうじゃなくて。掲示板に青い文字で『審議』って出ているのは分かりますか?」
「あれ? そういえば、いつのまにか出ているわね。初めて見るけど、あれは何なの?」
「あれはですね。その、なんというか……」
説明をためらう真嗣。すると、その消え入りそうな声をかき消すように、場内放送が流れるのだった。
『ただいまの京都競馬第3レースの審議について、お知らせいたします。第1位に入線した⑩番『ユイノマイロード』は最後の直線コースで内側に斜行。③番『ミューエンバーグ』の走行を妨害。妨害がなければ、被害馬は加害馬に先着できたと認めたため、③番『ユイノマイロード』は第4着に降着。着順を変更のうえ確定といたします』
そのアナウンスが終わると同時に、掲示板では2着から4着までの馬たちの順位がそれぞれひとつ繰り上がり、あかりの買った馬は四着になってしまうのであった。
「ちょっと! あれはどういうことなの? なんでわたしの買った馬が4着になってるの? これは何かの陰謀なの?」
恐慌一歩手前の震えた声を出しながら、真嗣の襟元を掴んでガクガクと揺さぶりかけるあかり。
それでも、真嗣はできるだけ平静を装い、真摯な口調で説明するのであった。
「先生、あの、掲示板に映っていた『審議』っていう表示は、レース中に起きた走行妨害により、着順が変更するかどうかを決裁委員が文字通り審議をしている証なんですよ」
「なによ。走行妨害って! わたしが買った馬は何も悪い事なんてしてないわよ!」
「いや、それがしちゃってたんですよ。最後の直線、前の馬を抜かそうとした時に先生の買った馬は進路変更したじゃないですか。あれがまずかったんですよ」
トラックのセパレートコースでおこなわれる陸上の短距離走とは違い、競馬は原則的に自由な進路変更が認められている。しかし、それはあくまで周囲(具体的に言えば2馬身差以内)に他の馬がいない時に限られている。横や後ろなど近くに他馬がいる状態での進路変更は「斜行」と呼ばれ、時速60キロ前後のスピードで激しく競いあう競馬では、落馬や転倒などを引き起こしかねない重大な反則とみなされている。そして、斜行がなかったと仮定した場合、被害馬が加害馬に先着していたと決裁委員が判断すると、加害馬は被害馬よりもひとつ下の着順に繰り下げになってしまい、これを「降着」と呼ぶ。
ようするに、あかりの買った馬は1着でゴールしたにもかかわらず、他馬の危険を顧みず急な進路変更をしたために、その制裁として4着まで順位を下げられてしまったのだ。
「そ、そんなのありなの……?」
そして、真嗣から説明を受けたあかりは黙り込み、コブシを握りしめながら唇をわななかせるのだった。
あかりの悔しい気もちは痛いほど理解できる。
なにせ、いま真嗣が述べた斜行における危険性云々という話は、あくまでも主催者や実際に馬に乗っている騎手側の論理。馬券を買ったファンの立場からすると、降着は典型的なぬか喜び。馬券が当たったと思って喜んでいたら数分後に天国から地獄へと叩き落とされるわけだから、普通にはずれるよりもフラストレーションが溜まる展開なのは間違いない。
そして、競馬に関するストレス耐性が皆無なあかりが、そんな不測の事態に直面したとなると、あとはもうどうなるかは分かりきっっているのだった。