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再会

 4月も終わりが近づき、大型連休が目の前まで迫ったある日の放課後。


 その日は朝から暖かく、ただよう湿気は初夏の訪れをひしひしと感じさせてくれるものだった。


〝雨が降りそうだな〟


 どんよりとした空を校舎の廊下の窓から見あげた真嗣は、心の中でそんな事をつぶやく。


「宇高くん」


 すると、職員室から出てきたあかりが真嗣のもとに駆け寄る。


「話したいことがあるんだけど、ちょっといい?」


「ええ。大丈夫ですよ」


 今週末、京都府伏見区にある京都競馬場で「天皇賞」という大きなレースがあり、つい数時間前に枠順が決定したばかりだ。ちなみに、現在の中央競馬では1年間に約2300レースがおこなわれているが、その中でも賞金が高く、集客が見込めるような格の高いレースは「重賞競走」と呼ばれている。さらに、その重賞競走の中にも「GⅠ」「GⅡ」「GⅢ」という3つの格付けが存在し、天皇賞はその中でも最もグレードの高い「GⅠ」に認定されている由緒あるレースなのである。


 きっと、あかりは枠順に対する真嗣の見解を聞きに来たのだろう。


「じつは、宇高くんの進路のことで話したいことがあるんだけど……」


 真嗣は心の底から驚く。まさか、あかりから教師として至極まっとうな理由で呼び止められるとは思わなかったからだ。しかし、それを表情に出すと、担任でもないのに、せっかく真嗣の進路を気にかけてくれているあかりに失礼過ぎるので、できるだけ平静を保つ。


「とりあえず大学に進学希望だけど、志望校や学部なんかはまったく決まってないって、宇高くんの担任の的山(まとやま)先生から聞いたんだけど……」


「はい。そのとおりです」


 つい先日、真嗣が入学してから初めての進路指導がおこなわれた。


 中学3年生の春の時点で騎手になるための競馬学校の入学規定の体重をオーバーしてしまった真嗣は、それ以来、競馬が好きだという情熱は胸の中でくすぶっているものの、明確な夢や目標を持てずにいた。


「でも、競馬関係の仕事って騎手だけじゃないでしょ? そういうのには興味ないの?」


「もちろん、レースに出走する馬を支えるのは騎手だけではないので、調教助手や厩務員になることも考えました。でも、騎手以上になりたいと思えるかどうかっていうと、やっぱりそうじゃないんですよ。それに、じつは俺が競馬関係の仕事に就くことを父親は反対しているフシがあるんですよ」


「そうなの?」


「ええ……」


 父は真嗣が騎手になることを快く思っていなかった。これは歴然たる事実である。「騎手を目指すなら勘当だ!」などと表立って言われたわけではないが、それでも、幼い頃からかけられた言葉の端々からは反対する意志が滲み出ていたのであった。


「でも、たしか中学校の時まで宇高くんを育ててくれたお祖父さんって、父方のほうだったわよね? 自分の父親が競走馬を生産する牧場で働いていたのに、そんなにも競馬関係の仕事を毛嫌いするの?」


「父親が牧場で働いていたから毛嫌いしてるんですよ。競馬に限らず、昔の畜産業界なんてブラック労働の極みみたいな職場環境ですからね。生き物相手だから休みなんて有って無いようなもの。冬は手足の指がちぎれるかと思うくらい寒いですし、夏は糞尿の臭いで鼻が曲がりそうになる。俺も仕事中に馬の扱いかたを間違えて大怪我した人間をたくさん見てきましたからね。父は祖父母がそんな環境で働いているのを誰よりも間近でみていたわけですから。実際、父は高校を卒業したら生まれ故郷の北海道をさっさと離れて東京の大学に進学。就職も堅実に商社に入りましたからね」


 真嗣が競馬に目覚めたのは牧場で働く祖父母に育てられたからなのだが、それは真嗣が小学1年生の時に母が早逝、さらにそのタイミングで父の海外赴任が決まったためなのだ。そんなやむを得ない事情がなければ、父とすれば息子である真嗣を競馬に触れさせたくはなかっただろう(しかし、実際には真嗣はその影響をおもいっきり受けてしまい、祖父の手ほどきのもとで騎手を志してしまう)。


「ふーん。そうなんだ。まあ、宇高くんはまだ若いんだから、焦らずじっくり決めたらいいわ」


「はい」


「あっ、そうだ。宇高くん、天皇賞の枠順が発表されたけど、見た?」


 すると、あかりは枠順が発表されたばかりの天皇賞の話題を口にするのであった。


「はい。昼休みにスマホで確認しました」


「わたしもついさっき確認したんだけど、月曜日段階で買おうと思ってた『レッドベルリン』が大外になっちゃったけど、宇高くんはどう思う?」


「俺が競馬を見始めた頃の春の天皇賞は、そりゃあシャレにならないくらいの前残り&内枠有利の馬場になることが多かったんですよ。その頃に比べて致命的ではないとはいえ、まあ歓迎できる枠順ではないですね」


「レッドベルリンは先行すると思う?」


「レッドベルリンは前でも後ろでも競馬ができる自在型に近い脚質で、本音を言えば前目につけたいでしょうけど、この枠順ですから、さすがに無理はしないと思います。なにより、7枠⑮番に入った『ジプシーダンス』はとにかく先頭(ハナ)に立たないと競馬にならない逃げ馬。この枠だろうと問答無用でスタートから飛ばしていくはずなのでハイペースになる確率は高く、騎手もその事は充分に理解しているはずなので、去年の有馬記念くらいの位置取りになると思いますよ」


「あと、レッドベルリンで気になるは、今週の併せ馬での追いきり(調教)で格下の2勝クラスの馬におもいっきり遅れをとってるんだけど、これ、本当に大丈夫なの?」


「先生が不安に思うのは分かります。ただレッドベルリンは昔からこうなんですよ。新馬戦から……もっと言えば、牧場にいた時から調教中はやる気のない感じでチンタラ走ってるのに、レースになると馬が変わるっていうか」


「ふーん。本番と練習の違いが分かってる賢い馬なんだ」


「賢いっていうよりも、完全に人間のことを舐めてるところがある馬ですよ。一度でもヘソを曲げると、テコでも動きませんし。まあ、去年の宝塚記念を勝った時もこんなピリッとしない調教だったんで、ぜんぜん問題ないですよ」


「それじゃあ、宇高くんから見て、一番いい枠に入った馬はどれなの?」


「それはもう間違いなく④番に入った『シオミトップガン』ですよ。この馬は……」


 そして、あかりは1頭ずつ枠順に対する見解を求め、真嗣も丁寧に答えていくのであった。


「ところでさー、わたし、ひとつ気になっていたんだけど、新聞の一面に馬柱が載るような大きなレースになると、このレッドベルリンを始め、出走する馬の生産者が『豪山(ごうざん)ファーム』ばっかりになるんだけど、そんなに凄い牧場なの?」


「ええ。豪山ファームは押しも押されもせぬ日本一の生産牧場ですからね」


「人気馬のレッドベルリンやシオミトップガンを始め、出走する18頭中10頭が豪山ファームの生産馬って、ちょっと出過ぎじゃない?」


「ええ。だから『今や日本競馬の大きなレースは豪山ファームの運動会だ』ってファンから揶揄されるくらいですからね。しかも、この天皇賞だけではなく、ドバイや香港などの国際レースにも生産馬を送りこんでいますから、もはや完全な一強体制。その存在は圧倒的ですよ」


「そうなんだ。ところで、宇高くんお祖父さんが牧場で働いていたんなら、こういう豪山ファームみたいな大きな牧場の関係者のコネや相談できるような相手はいないの?」


「うーん……」


 視線をあかりから外して顔を伏せる真嗣。


「いないことはないんですけど……」


 そして、そのまま口ごもってしまうのであった。


「おーい。宇高」


 すると、真嗣はどこからか真嗣を呼ぶ声がする。


「的山先生、なんですか?」


 真嗣を呼び止めたのは担任の男子教師である的山だった。


「なんか、オマエの妹が会いたいって言って学校に来てるから、今すぐエントランスのほうに行ってやれ」


 それだけ伝えると、すぐにその場を離れる的山。しかし、虚を衝かれたひとことに真嗣は驚き、あかりと顔を見合わせるのだった。


「宇高くんて、妹さんがいたの?」


「いえ。俺はひとりっ子で兄妹はいません」


「だったら、妹って誰?」


「分かりません。でも、とりあえず、エントランスに向かいましょう」


 分かりません――あかりにはそう答えたものの、心当たりがないわけではなかった。真嗣ははやる気もちを抑えながらエントランスへと駆けていき、あかりもそれに追随するのだった。


「真嗣、久しぶりなのだ」


 そこには、ひとりの少女が立っていた。


 身長は真嗣よりも頭ひとつ分くらい低く、胸やフトモモなどの肉のつきかたも第二次性徴前の繊細さを色濃く残している。なにより、ぬいぐるみのような大きな瞳が少女の幼い印象はよりいっそう強いものにしているのであった。


「まったく……ぜんぜん連絡も寄こさないで、こんなところで何をやっているのだ?」


 しかし、少女は不機嫌な顔つきで腕組をして、幼い容貌とは不釣り合いの尊大な口調で言い放つのであった。


「カレン……」


 真嗣の口から漏れる息を吐くかのような呟き。


 (ごう)()カレン。


 それが、真嗣にとって1年半ぶりに会う幼なじみの名前だった。




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