山崎昂子③
「マジ、あたま痛いんですけど~」
雲ひとつない快晴の空の下。朝の新鮮な光がターフに反射して、清涼な大気の中に散っていく競馬場。
しかし、そんな爽やかさ空気とは程遠い、低く、濁った声で昂子は自らの体調不良を訴えるのであった。
「昨日、いったい何時まで飲んでたんですか?」
あの後、真嗣はそうそうに退散したのだったが、やはり昂子たちはあれからも相当の量を飲んでいたようだ。
「シンちゃんが帰った後に、河岸を変えたんだけど、正直、あーしはその辺りから記憶があいまいなンだよね~。いや~、それにしても、あかりんの酒の強さは異常だわ。口に入れた瞬間、液体のアルコールをとばす特殊能力でも持ってんじゃないの?」
「本人いわく、一斗を超えない限りシラフらしいですからね。はい。これでも飲んでください」
真嗣は売店で買ってきたペットボトルのミネラルウォーターを手渡す。
「う~。あんがと。あーし、同年代で自分よりも酒に強い人間、生まれて初めて見たわ」
そして、昂子はミネラルウォーターを飲もうとするのだが、二日酔いで指先が震えているせいでまともにフタが開けられない。仕方がないので、真嗣が代わりに開けてあげるのだった。
「あ~。やばい。もうそろそろ第1レースの締め切りじゃん」
昂子はあいかわらず震える手で競馬新聞と投票用のマークカードを取り出す。
〝こんな体調でまともに競馬の予想ができるのか?〟
もはや、昂子に対する期待がどんどんと薄れていくのを感じながら、そんな事を思う真嗣。
しかし、次の瞬間、驚く。
それまでペットボトルのフタさえ開けられなかった昂子の指がマークカードとボールペンを持った途端に、ぴたりと震えが止まったのだ。
「あー、やっぱり、あーしが狙ってた馬、想定していたよりも人気になってるわ。ほんと、最近の競馬ファンは抜け目ないわ」
その、モニターに映るパドック映像と競馬新聞を眺める昂子のまなざしは、戦場の地形を吟味する指揮官さながらの真剣さに満ちていた。
「シンちゃんは馬体から馬の調子が分かるって言ったけど、経験の少ない新馬戦や未勝利戦だと不確定な部分が多いって言ってたよね?」
「ええ。俺の馬体診断はあくまでの過去のレースからの比較ですからね。出走したレースのサンプルが少ないほど好不調は判断しにくいんですよ」
「うん。それじゃあ、午前中のレースは分かる範囲でいいから、教えてね。午後からのレースはがっつり頼りにすると思うから」
「は、はい……」
それまでのおちゃらけた酔っ払いぶりを披露していた昂子の変貌ぶりに、真嗣は狐につままれた気分にさせれるのだった。
「昂子ちゃ~ん。昨日は楽しかったわね~。それじゃあ、今日は競馬を楽しもうか~」
すると、競馬場へ到着するなり、どこかへと消えていたあかりが両手にビールを持って帰ってくる。もちろん、ひとつは自分の分、もうひとつは昂子の分ということなのだろう。
〝まだ第1レースも始まっていない、こんな早い時間から飲むのか?〟
もはや完全にアル中ぶりを隠そうともしないあかりの行動に、真嗣は目眩を起こしそうになる。
「はい。昂子ちゃん。どうぞ」
「あー、ごめんね、あかりん。あーし、競馬している時はお酒を飲まないようにしてるんだよねぇ。だから、あーしの分もあかりんが飲んでいいよ」
「えっ? なんで……?」
「あかりんは大事な試験の前にお酒を飲んで受験する? 集中力や思考力に影響が出るからしないよね? もちろん、馬券代は観戦料と割り切ってお酒を飲みながらレースを観戦する楽しみかたも否定しない。ううん。むしろ、そっちのほうが休日の余暇としてはよっぽど健全だと思う。でも、あーしは大事なお金を賭けているからには、1円でも多くの払い戻しを受けたいんだよね」
「そこまでしないと競馬って勝てないの?」
「うん。競馬ってテラ銭を引かれた売り上げの約75パーセントを奪い合うギャンブルだけど、あーしたちのような若くてライトファンはどんどん少なくなってるの。しかも、SNSとかの普及で有益な情報はすぐに拡散される時代だから、四六時中、競馬の研究しているようなハイレベルなファン同士がお金を奪い合っているような状態になっちゃってるんだよね~。実際、あーしも平日は出走馬の過去のレースをみて、新聞には記されていない不利とかがないかの確認くらいはしてるし。だから、あかりん。せっかくおごってもらって悪いんだけど、そのビールは飲めないんだ」
真嗣とあかりは昂子の豹変ぶりに驚き、言葉を失う。
昨日、初めて出会った時から真嗣の昂子の印象は、明るくノリのいい性格という評価で一定していた。
とくに、初対面の場が居酒屋だったあかりにとっては、その印象はよりいっそう強いものだっただろう。
しかし、今の昂子はどうだ。
口を真一文字に結んだ硬質な表情、静かに落ち着いた瞳。競馬というギャンブル対して真剣に向き合う勝負師の姿が、そこには存在していたのだった。
これくらい気合を入れなければ、競馬というギャンブルでは勝つことはできない――。その事実をまざまざと見せつけられた気分になるのだった。
そして、そんな昂子の姿と比べて、今までの自分が恥ずかしくなったのだろう。
スーっと、ビールを持つ手を引っ込めるあかり。
「宇高くん、わたしと昂子ちゃんの分のビール、飲む?」
「飲めるわけないでしょう!」
真嗣は激しくツッコミを入れるのであった。
そして、第1レースが始まるのだが、昂子の観戦姿勢は冷静沈着そのものだった。馬券を当てても必要以上に騒がず、予想外の展開によって不的中に終わったとしても、敗因を分析して反省はするのだが、精神的に決して引きずらなかった。
「先生、昂子さん。次のレース、③番の『リアファダル』がいいと思います。5走前に人気薄で2着に入った時と同じような毛ヅヤと馬体のハリを感じます」
真嗣も、そんな昂子とあかりをサポートするために、パドックによる馬体診断で助言する。
「ありがとう。シンちゃん。『リアファダル』ね。分かった。それじゃあ、こいつから三連複と馬連で組み立てて……」
「『リアファダル』か~。この前の『チェシャキャット』の時は失敗しちゃったから、まずは単勝を買って~……」
そして、昂子とあかりは、それぞれ真嗣の推奨馬を中心として馬券を組み立てていくのだった。
しかし……
『勝ったのは⑪番の《ランブリングダイス》! 《リアファダル》は猛追しましたが、四着でしょうか』
真嗣が推奨した『リアファダル』は最後の直線で一頭だけ違う脚色で猛追したものの、最後は届かず馬券圏外の四着に終わる。
そう、真嗣の馬体診断で見抜くことが出来るのは、あくまでの調子のみ。たとえ、その馬が絶好調だとしても、他の馬との実力差が調子だけでは埋められないほど開いていれば、普通に負ける。なによりも、競馬は馬の「体調」や「能力」と同じくらい、ゲートが開いた後の「展開」が勝敗を左右する。
このレースだってそうだ。
『リアファダル』直線半ばまで馬群に包まれ、ようやく外に進路を取って猛追したものの、時すでに遅し。ゴールがあと50メートル先だったら、完全に勝っていただろうと言えるくらい脚を余しての4着だった。そして、それは。騎手が馬の能力を最大限に引き出してやる事ができなかったのを意味する。
コブシを握りしめ、無言で肩を震わせるあかり。
〝まずい。まずいぞ……〟
普段から馬券がハズれた理由を騎手や調教師などの競馬関係者に責任転嫁して罵倒するあかりが、こんな典型的な騎手がヘタをうってしまったレースを目の当たりにした時の言動など火を見るよりも明らかだ。
「ふざけんじゃないわよ! なによ、今の乗りかたは! あと1000メートルだって走れそうなくらい脚を余してたじゃないの! 競馬を舐めてんの? バッカじゃないの? こんなヘタクソな騎乗しているから、未だに重賞レースも勝てないのよ!」
案の定、口から火の玉でも飛び出してきそうな勢いで、あかりは騎手を痛罵する。
「ねえ、昂子ちゃんもそう思うでしょ?」
そして、昂子に同意を求めるのであった。
「うん。今のはハッキリ言って騎乗ミスだと思うし、もっと早く馬群から抜け出していたら2、3着はもちろん1着だってあったと思う。正直、悔しいし、むかっ腹も立つわ」
「そうでしょ? そうでしょ?」
自らの怒りを共感してもらい、よりいっそう熱を帯びる口調となるあかり。
しかし、口では同意しつつも、昂子の瞳の色はどこまでも平静なのだった。
「でもね、たしかに今のレースはあーしたちが買った馬の騎手の騎乗ミスで負けたけど、他のレースでは自分の買っていない馬の騎手が騎乗ミスしたおかげで馬券を的中できるパターンもあるんだし、自分がハズれた時だけ『たら・れば』を言い出すのはフェアじゃないと思うんだ。実際、勝ち馬も道中で結構な不利を受けてたしね」
そして、昂子はすぐにアタマを切り替えて、真嗣と共に次のレースの検討を開始する。
「すいません。昂子さん。自信はあったんですけど、馬券にはならなかったですね」
「いいよ。気にしないで、シンちゃん。あの馬の調子がよかったっていう見立て自体は間違ってなかったんだし」
「それで、次のレースなんですが……」
茫然と立ちすくみ、その光景を眺めているあかり。
そして、あれだけ競馬をしている時のビールをやめられなかったあかりだったが、この日はこれ以降、ただの一滴もアルコールを口にすることはなかったのだった。