いつものパターン
迎えた週末の土曜日。
あかりと真嗣はこの日も当然のように競馬場に赴き、パドックに陣取っているのだった。
「先生、⑥番の『チェシャキャット』を買ってください!」
「⑩番の『チェシャキャット』って15番人気の大穴じゃない。本当にこんな馬を買っても大丈夫なの?」
「ええ。この馬は前走と前々走は体調が戻りきらなかったり馬場が合わなくて2桁着順で負けた事が大きく人気を下げた要因ですけど、3走前には同じ条件の未勝利戦であがり(レース終盤の走破時計)最速で3着になっている実績があります。そして、今日はその時と同じように馬体重よりも体が大きく見えますし、歩様もトモ(後ろ脚)の返しがよくて前走や前々走とはあきらかに違います」
力強く断言する真嗣。
「宇高くんを疑うわけじゃないけど、本当に来るの? 16頭立てのブービー人気の馬よ」
「ええ。もちろん、大穴の馬ですから、さすがに1着はきびしいと思いますけど、2、3着は充分にあると思います。それに、未勝利戦を始めとする午前中のレースは午後のレースと比べてオッズほど実力差が開いてないことが多いので、ここは買いですよ。先生!」
「わ、わかったわ!」
真嗣が推奨する『チェシャキャット』を中心にして、あかりは買い目をマークカードに記入する。
そして、レースが始まると、なんとあかりの本命である『チェシャキャット』は、道中は中団に位置していたが、直線に入ると一気に末脚をはじけさせて、なんと1着でゴールするのだった。
注目度が低い午前中のレースとはいえ、ブービー人気馬による大番狂わせに観客たちからは「マジか」「ウソやろ」という驚きの声と困惑のささやきが湧きあがる。
そんなざわめきの中、小さくコブシを握りしめてガッツポーズをつくる真嗣。
「先生、よかったですね!」
そして、晴れやかな笑顔でそう言祝ぐのだった。
「………」
しかし、隣にいるあかりは呆然と立ちすくみ、まるで死んだ魚のような目をして黙り込んでいる。
嫌な予感が光の速さで真嗣の全身を駆け巡るのだった。
「あの、先生……」
「買ってない……」
真嗣の呼びかけに対して、抑揚のない口調で、うめきに近い声を漏らすあかり。
「買ってないって……どういう事なんですか? 先生!」
「だから、宇高くんの指示どおり『チェシャキャット』は買ってたけど、2着と3着の馬は買ってなかったから、馬券ははずれたのっ!」
涙目になり、そう訴えるあかり。そして、真嗣の背筋は凍りつき、顔から血の気が引くのが自分でも分かるのであった。
「でも、『チェシャキャット』は一着だったんですよ。先生、単勝馬券(一着になる馬を当てる馬券)も買ってないんですか?」
ちなみに『チェシャキャット』の単勝オッズは190倍。(最少の馬券購入金額である)100円だけでも買っていれば19000円もの払い戻しになっていたのだ。
「だって、だって、宇高くん、言ってたじゃん。『1着はない』って、だから、単勝馬券は買ってなかったんだもん!」
「そ、そんな……」
まさか、狙い馬が走りすぎたせいで馬券がはずれるとは思いもしなかった。
「あ~ん。宇高くんのバカ! バカ! バカ~! なんで『1着は絶対に無理』なんて言うのよ~。それがなかったら、わたしだって、ちゃんと単勝を買ってたのに~」
そして、あかりは真嗣の肩にポカポカと力のない殴打をくりかえすのだった。
「す、すいません」
もちろん、真嗣は何も悪くないのに、ついつい謝ってしまう(ちなみに、真嗣はあくまで「1着はきびしい」と言っただけなのに、自分の都合のいいように記憶を改竄しているあかりの中ではいつのまにか「1着はない」になっていて、さらには「1着は絶対に無理」にまで発言が変化しているのだった)。
「もういい! 次よ! 次! 次は絶対に当てるんだから!」
子供のように頬をふくらませて踵を返すあかり。
「あの、先生、どこへ行くんですか?」
「売店でビールを買ってくるの!」
「もう飲むんですか? まだ午前中ですよ……」
「だって、飲まなきゃやってられないだもん!」
「そうですか……」
真嗣はただその背中を見送る事しかできないのであった。