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藤井あかり


六甲山地の東端に存在し、少女歌劇で全国的に有名な観光都市である兵庫県宝塚市。その市街地から南に5キロほどの場所に、その競馬場は存在している。


 阪神競馬場。


 関西のみならず、日本でも有数の規模を誇るこの競馬場には、今日もまた多くの競馬ファンが訪れていたのだった。


 場内に植えられた桜が満開を誇り、風と共に惜しげもなく翠緑の(ターフ)に乱れ飛ぶ。  


 4月の晴れた日の土曜日。


「さて、昼メシでも食べようかな」


 今まで最もコースに近い最前列の立見席でレースを観戦していた宇高(うだか)真嗣(しんじ)は、スタンドの屋内へと移動しようとするのであった。


「しかし、あれやで! なんで今永(いまなが)の奴、あないな大外ぶんまわすようなアホな乗りかたすんねん!」

「あのアホのせいで、10万馬券取り逃したわ! どないしてくれんねん!」


 すると、真嗣と同じように立ち見席で観戦していた中年男性ふたり組が騎手に対する悪態をつきながら、歩いていくのだった。


〝あのふたり、いつも同じような愚痴を言ってるよなぁ……〟


 べつに、真嗣はあの2人組と知人というわけではない。


 ただ、真嗣はもう半年以上、レース開催日になると、ほとんどこの阪神競馬場に訪れている。だから、とくに声をかけるわけでもない、名前も素性も知らないが、「あの人、いつもあの柱に寄り掛かって競馬新聞を読んでるよな」とか「阪神タイガースの野球帽をかぶったおじさん、また無料給茶機のそばに居てるよ」といった感じで、存在を認識している競馬ファンは多くいる。


 あのふたり組の中年オヤジたちもそんな存在で、馬券がハズレるたびに、ああやって騎手に対する誹謗中傷に近い不満や愚痴を口にし、時には大声で「八百長や!」「金返せ!」などと叫んでいるのであった。


「あれ? 宇高くん?」


 しかし、そんな顔見知りはいても、知人など存在しないはずの競馬場で自らの名前を呼ばれて、驚いた真嗣は足を止めてしまう。


「キミ、1組の宇高くんでしょ?」


 高校のクラス名まで名指しされ、人違いではない事を確信した真嗣は後ろをふりかえる。


「ああ、やっぱり宇高くんだったのね」


 すると、そこにはひとりの女性が立っていた。


 彼女の名前は、藤井(ふじい)あかり。


 真嗣が通う高校の英語教師である。


「藤井先生。なんで先生がいるんですか?」


「それはこっちのセリフよ。なんで宇高くんが競馬場にいるのよ。親と一緒なの?」


「いえ。ひとりですけど……」


「まさか、高校生なのに馬券を買ってるんじゃないでしょうね? それだとさすがに先生、見逃せないんだけど……」


 ジト目で真嗣をみつめるあかり。


「ち、ちがいますよ。俺、昔から競馬が好きなんで、レースを見るためだけによく競馬場に来るんですよ」


 そう、たしかに我が国では未成年の馬券の購入は認められていない。しかし、競馬場に出入りするだけなら、法律上の問題はないのだ。そう理由は説明する真嗣だったのだが、それはそれで法律違反を疑われる事とはまた別の焦りが生まれてくる。


〝先生、絶対に変な奴だって思ってるだろうなぁ……〟


 高校1年生である真嗣のクラスメイトたちは、休日になると仲間と街に遊びに出かけたり、部活で汗を流したりして、まっとうな青春を謳歌している。


 いっぽう、真嗣は友人を誘うわけでもなくたったひとりで、むさ苦しい馬券オヤジたちがたむろしている競馬場で、馬券も買わずにただ馬を眺めるだけで休日の余暇を消費しているのだ。


 これを、変人と言わず何と呼べばいいのだろうか。


「宇高くんは競馬好きって言ったけど、それでも馬券を買わずにレースを見るだけでも楽しいものなの?」


「はい。馬の走る姿を見ているだけでも楽しいんですよ」


「なんで?」


「『なんで』って言われても困るな。でも、うまく説明できないですけど、俺は馬が好きだから馬券を買わなくても、競走馬が走る姿を見てるだけで満足できるんですよ」


 その真嗣の言葉に、あかりはキョトンとした様子でまばたきをくりかえす。


「よかった」


 そして、しみじみとそう呟くのであった。


「へっ? 先生、なにが『よかった』なんですか?」


「いや。宇高くんって真面目で大人しいけど、そのぶん自己主張が控えめで何か夢中になれるものもないのかなあって、先生、ちょっと心配していたんだ。だけど、そんな事なかったんだなって思っただけ。そっか、宇高くんは競馬が好きなんだ」


 満足げに微笑むあかり。


 その表情は、童女のようにあどけなさなのに、どこか大人の女性の色香を感じさせてくれる不思議な笑みだった。


「そうだ。宇高くん。ちょうどお昼だし、先生と一緒にゴハンを食べない? おごるわよ」


「は、はい!」


 そして、真嗣はあかりと昼食を共にすることにしたのであった。


「ところで、競馬場に来ていたって事は、先生も競馬に興味があるんですか?」


 競馬場内にある和食レストランのテーブル席で向かい合っているふたり。注文を終えたので、料理が運ばれてくるまでのあいだ、真嗣はあかりに質問をするのであった。


「ううん。先生、じつは今まで1度も競馬は見た事がないの。だから、今日が生まれて初めての競馬場なのよね」


「それじゃあ、なんでまた今日は競馬場に来ようと思ったんですか?」


「ん~、たまたま乗った電車内で競馬場内の広場でイベントがやってるって広告で出てたのよ。それでヒマだし、イベントもわたし好みだったから来てみたってわけ」


「あ~、なるほど。そういう事ですか」

 1980年代後半から90年代にかけての空前の競馬ブームが終わりを迎えて久しい現在。今は競馬界も新規ファンを獲得しようと躍起になっている。


 競馬場内でおこなわれている様々なイベントもそのひとつで、若者に人気の芸能人をゲストに呼んでトークショーを開いたり、全国各地のB級グルメなどを集めて食フェスを開催するなどして集客に努めているのであった。


〝それにしても……〟 


 真嗣は改めてあかりの顔を見る。


〝先生って、やっぱり凄い美人だよな〟


 入学してから最初の英語の授業。


 あかりが担任だと判明した途端に、クラスの者(主に男性生徒)が色めきたったのは今でもよく覚えている。


 雲のようにやわらかに波打つ少し色素の薄い黒髪。その口調を始めとした物腰は、まるで彼女の周りだけゆっくりと時間が流れているようだった。そして、やや丸形のアーモンドアイを縁取る長い睫毛は、目を伏せれば薔薇の花のような淡い影を落として、大人の色香を感じさてくれた。真嗣は目の前の女性が大学を卒業したばかりで、自分たちと七歳しか離れていないとはにわかに信じがたかった。


 しかし、そんな近寄りがたいような美しさを感じさせたのは、あくまで授業前のみ。


 いざ、授業が始まると、あかりは自らの容貌の美しさなどハナにかける様子もなく、親しみやすい笑顔と明るい性格で生徒たちに気さくに接してくれた。それでいて、授業そのものも理知的な説明で分かりやすいと評判がよく、あかりはすぐに男女を問わず人気の新任教師となったのだった。


 そんな学年全体でも噂になっているような美人新任教師とふたりっきりで食事をしているのだから、真嗣は心臓の鼓動はいつもよりも速く脈打ってしまうのであった。


「それにしても、わたし、競馬場ってもっと客の年齢層が高いと思ってんだけど、中に入ってみると案外、若いコたちも多いのよね」


「そうですね。最近の競馬場は一昔前の鉄火場のイメージを払拭しようとしていて、若者の呼び込みに積極的ですからね」


「それでも、宇高くんみたいなあきらかな高校生がひとりでいるのは珍しいんだけどね。宇高くんは漫画やゲームなんかで競馬に興味を持ったの?」


 そのあかりの質問に真嗣は静かにかぶりをふる。


「じつは俺、子供の時から騎手になりたかったんですよ」


「騎手? それじゃあ、宇高くんは高校を卒業したら競馬の騎手になるつもりなの?」


 高校を卒業したら競馬の騎手になる――。まるで大学や一般の企業に就職するような気軽な物言いに真嗣は心の中で苦笑する。「そうだよな。競馬に興味がない人間からしたら、そういう認識なんだよな」と。


「いや、俺はもう騎手になる夢は諦めました」


「どうして?」


「中央競馬の騎手になるためには養成所に入らなければいけないんですけど、受験資格に厳格な体重制限があって、それにひっかかっちゃったんですよ」


「体重制限って、宇高くん太ってないじゃない。むしろ痩せてるけど、それでもひっかかったの?」


「ええ。騎手になるための養成所に入るには、中学を卒業した時点で45キロ以下じゃないと駄目なんですよ」


「よ、45キロ? なにそれ? 女の子じゃなくて男の子がよね? いくらなんでも軽すぎない?」


「ええ。でも、プロの騎手はレースがある時は50キロ前半、時には40キロ台にまで体重を落とさないといけないですからね。俺も中学の途中までは頑張ったんですけど、どうしても騎手として必要な筋力を維持したまま体重を落とす事ができずに諦めました」


 まるで死に別れた恋人を偲ぶかのような口調で自らの過去を語る真嗣。


「お待たせいたしました」


 すると、真嗣とあかりが頼んだ料理が店員の手によって運ばれてくる。あかりは和食御膳。真嗣は単品で注文した焼き魚と小鉢のみだ。


 そして、その料理を見て、あかりが呟く。


「もしかして、宇高くんがそれだけしか食べないのって、その時の減量の影響?」


「ええ。まぁ、そんなところです……」


 かつては騎手を志していたとはいえ、今はただの高校生。


 体重を抑える必要はどこにもない。しかし、未だに真嗣はカロリーの高い食事や満腹になる事に対して強い忌避感が存在するのだった。


「ちなみに、宇高くんの今の身長と体重は?」


「え~と、身長172センチで53キロです」


 すると、あかりは沈痛な面持ちで深々とため息をつく。


「すいませーん。ライスの大盛りと鶏のからあげとメンチカツをお願いしま~す」


 そして、店員を呼んで、次々と追加注文するのだった。


「ちょっと! 先生、なに頼んでるんですか?」


 慌てる真嗣。しかし、あかりは教師然とした澄まし顔で反論を封殺する。


「いいから黙って食べなさい。これは先生命令です」


「いや、でも……」


「そりゃあ太り過ぎはよくないけれど、いくらなんでも今の宇高くんは痩せすぎです。BMIが18を切ってるじゃない」


「わ、分かりました」

 

 あかりの剣幕に恐縮しながら、真嗣は目の前と料理に箸をつけるのだった。



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