第七章:最後の夏
一紀の死後、蒼一郎は毎日、必死に原稿を書き続けた。山路館での日々、一紀との対話、千世の想い、灯子の優しさ――それらが全て、一つの物語として紡がれていく。
書き進めるうちに、蒼一郎は気づいていた。自分はもう、以前のような空虚な言葉は書いていない。一字一字に、確かな重みがあった。
そんなある日、千世が蒼一郎を呼んだ。
「実は、山路館の経営が限界に来ています」
静かな声で、千世は続けた。
「息子との約束は、もう果たせないのかもしれません」
その言葉に、蒼一郎は咄嗟に立ち上がった。
「待ってください! 僕たちに、何かできることがあるはずです」
◆
星明かりの差し込む深夜の廊下で、蒼一郎と灯子は向かい合って座っていた。二人の間には、一紀の遺品の数々が広げられている。スケッチブック、絵具、使い古された筆。そして、左手で描かれた最後の油彩画。
「このまま、先生の絵を押し入れの中に仕舞い込むのは忍びないですが――」
灯子の言葉が途切れる。
月明かりに照らされた蒼一郎の横顔が、何かを決意したように引き締まった。
「山路館で遺作展を開きませんか」
蒼一郎の提案に、灯子は息を呑んだ。
「そうです。ここを芸術家たちの集う場所として再生させる。それこそが、千世さんの息子さんが描いた夢だったはずです」
蒼一郎の声が、闇の中で響く。
二人は夜遅くまで話し合った。展示スペースの確保、照明の手配、案内状の文面。想像以上に考えるべきことは多かったが、それでも二人の胸は高鳴っていた。
「火守先生の絵には、必ず人々の心を動かす力があります」
窓の外の月を見上げながら、灯子は静かに、しかし強い確信を込めて言った。
「先生は左手で描くことを選びました。その決意と、魂の叫びが、きっと誰かの心に届くはずです」
翌朝、二人は千世に計画を打ち明けた。女将は最初こそ戸惑いを見せたものの、やがて静かに頷いた。息子の夢を受け継ぐ機会。そう考えると、彼女の目に迷いはなかった。
計画は、誰も予想しなかった反響を呼んだ。地元紙の文化部記者が取材に訪れ、「戦後の再生を告げる文化の灯火」という見出しで大きく報じられた。記事を読んだ町の人々が次々と協力を申し出てくれる。照明器具を提供すると言う電気店の主人、展示用の台座を作ろうと申し出た大工の棟梁。
「火守先生のお世話になりました」
「戦前、先生の個展で感動したことを覚えています」
「私の息子も戦地で――」
次々と訪れる人々の言葉に、一紀の存在の大きさを改めて感じた。彼の絵は、既に多くの人々の心の中で生き続けていたのだ。
九月に入り、展覧会の準備は佳境を迎えた。館内の最も日当たりの良い一室が展示室として選ばれ、畳を上げて床を張り直し、壁には白い布が掛けられた。地元の表具師が額縁を修復し、大工の棟梁は展示用の台座を一つ一つ丁寧に仕上げていく。
一紀の絵画が、慎重に飾られていった。最も古い作品は大正時代のもの。若き日の情熱が躍動する鮮やかな色彩。戦前の円熟期を示す静謐な風景画。そして??戦地で描かれたスケッチの数々。最後に、左手で描かれた晩年の作品群。一つ一つの作品に添えられた制作年代が、画家の魂の軌跡を雄弁に物語っていた。
展覧会初日。早朝から、人々の長い列ができた。老人から子供まで、様々な人々が訪れる。特に、一室を占める戦地のスケッチコーナーは、深い静寂に包まれていた。
鉛筆で描かれた簡素な線。しかしそこには、戦場の生々しい現実が刻まれている。野営する兵士たち、負傷兵を運ぶ従軍看護婦、遠くを見つめる若い兵士の瞳。誰もが、長い時間その前で立ち止まった。
「あの時、私も同じような光景を――」
「息子からの最後の手紙にも、こんなことが――」
囁くような声が、展示室に満ちる。
「これが、芸術の力なんですね」
人々の反応を見つめながら、灯子が静かに呟いた。
「人の心の痛みに触れ、それを癒やしていく」
その言葉に、蒼一郎は深く頷いた。芸術は単なる美の表現ではない。魂と魂が出会う場所。痛みを分かち合い、互いを慰め、そして新しい希望を見出していく。自分の小説も、同じ役割を果たせるだろうか。
展示室の隅で原稿用紙を広げながら、蒼一郎はペンを握り締めた。最後の章を書くために。魂の真実を記すために。
外では、秋の風が山路館の古い欄間を優しく撫でていった。