第六章:灯子との約束
その出来事は、八月も終わりに近づいた夜のことだった。
「先生の容態が急変しました!」
灯子の切迫した声に、蒼一郎は飛び起きた。一紀の部屋に駆けつけると、画家は激しい痛みに顔を歪めていた。
医者が呼ばれ、応急の処置が施された。しかし、一紀の体力は確実に衰えていっていた。戦傷による慢性的な痛みが、ついに限界を迎えつつあった。
「浅見、そこにいるか」
夜も更けた頃、一紀が蒼一郎を呼んだ。
「先生」
「私の絵を、頼む」
一紀は、右手の激痛に耐えながら言葉を継いだ。
「芸術は、決して無駄ではない。魂の痛みを形にすることで、誰かの心が救われる。それを、私は信じている……」
その夜、一紀は長い間、自分の絵について語った。戦前の輝かしい時代のこと、戦地での体験、そして左手で描き続けることを決意した日のこと。
夜が明けようとする頃、一紀は静かに息を引き取った。最期まで、絵筆を握った左手は温かかった。
葬儀は、山路館で執り行われた。参列者は少なかったが、そこには確かな重みがあった。遺品の整理をしていると、膨大な数のスケッチが出てきた。戦地で描かれた兵士たちの姿、戦後の街の風景、そして山路館の日常。それらは全て、魂の記録だった。
灯子は、最期まで一紀の看護を続けた。その献身的な姿に、蒼一郎は深い感銘を受けていた。
「灯子さん」
葬儀の後、蒼一郎は彼女に声をかけた。
「先生は、本当に幸せだったと思います。あなたのような看護婦に見守られて」
「いいえ」
灯子は首を振った。
「私は、先生から多くのことを学びました。痛みを抱えながらも、なお希望を持ち続けること。そして、その想いを形にする勇気」
二人は、しばらく黙って庭を眺めていた。夏の終わりを告げる風が、木々を揺らしている。
「私、決めました」
灯子が静かに言った。
「この町で、傷ついた人たちを看続けていきます。それが、私の使命だと思うから」
その言葉に、蒼一郎は強く心を打たれた。
「僕も、決意したんです」
蒼一郎は、懐から原稿の束を取り出した。
「この山路館で出会った人たちのことを、小説に書こうと。それが、僕にできる精一杯の……」
言葉が詰まった。灯子は、優しく微笑んだ。
「きっと、素晴らしい小説になると思います」
その言葉が、蒼一郎の背中を押した。