第五章:千世の手紙
暑さが和らぎ始めた八月の終わり、千世の体調は少しずつ回復に向かっていた。朝夕には、かすかな秋の気配が感じられるようになり、庭の草花も色を変え始めていた。蒼一郎が掃除の手伝いを終えて自室に戻ろうとしたとき、千世に呼び止められた。
「浅見さん、少しお時間をいただけますか」
千世の声には、いつもの凛とした響きが戻っていた。しかし、その眼差しには普段見せない迷いの色が浮かんでいた。蒼一郎が座布団に腰を下ろすと、千世はゆっくりと押し入れに向かい、奥から古い桐箱を取り出した。
「これは……」
箱を開けると、幾重にも和紙で包まれた一通の手紙が出てきた。黄ばんだ便箋からは、かすかに古い紙の香りがした。包みを解くとき、千世の手が微かに震えているのが分かった。
「息子が戦地から送ってきた手紙です。何度読み返したか分からないけれど……今日は、浅見さんに読んでいただきたいのです」
千世は深く息を吸い、ゆっくりと吐いた。その仕草には、これから語り出す言葉の重みが感じられた。
「浅見さんの声はその……息子の声とどこか似ているのです」
二人の間に短い沈黙があった。やがて蒼一郎は無言で静かに便箋を広げ、若い兵士の力強い文字に目を落とした。
『母上へ
今日も、空は青く澄んでいます。こちらでは絵を描く時間もなく、ただ任務に追われる日々です。でも不思議と、故郷の風景が鮮明に蘇ってきます。
朝もやの中に浮かぶ山路館。廊下を磨く母上の姿。庭の松を渡る風の音。夕暮れ時、湯煙の向こうに沈む夕陽。それらが全て、まるで昨日のことのように鮮やかです。
火守先生から教わった技法で、記憶を頼りにスケッチを描いています。拙い絵ですが、それでも心が落ち着くのです。先生はよく仰っていました。「絵を描くということは、魂の真実を映し出すことだ」と。今になって、その言葉の意味が少しずつ分かってきました』
蒼一郎は、声に抑揚をつけながら、ゆっくりと読み進めた。千世は目を閉じ、息子の声を聴くように身を傾けている。障子を通して差し込む陽の光が、二人の間に柔らかな空気を作り出していた。
『いつか必ず帰ったら、山路館を日本一の温泉旅館にしましょう。火守先生にも手伝ってもらって、館内に絵を飾るんです。芸術家たちの集う場所として、新しい文化を発信する場所として―。それが、僕の夢です。
母上、私たちの山路館を、きっと素晴らしい場所にしましょう。今は苦しい時代かもしれません。でも、この戦争が終われば、必ず新しい時代が来るはずです。その時のために、僕は今を耐えているのです。
火守先生から教わった絵の技法も、もっと磨きをかけたい。帰ったら、先生にもっと指導していただこうと思います。そして今度は、母上の笑顔も描かせてください』
読み進めるうちに、蒼一郎の声が徐々に震え始めた。若き兵士の純粋な願いと、その願いが永遠に叶わぬものとなってしまった現実との間に横たわる深い溝に、胸が締め付けられた。
『今宵は満月です。母上も、同じ月を見上げていることでしょう。この手紙が届く頃には、また新しい季節になっているかもしれません。その時は、縁側で月を眺めながら、母上とゆっくりとお茶を飲みたいものです。
では、お体を大切に。必ず、無事に帰ります。
あなたの愛しい息子より』
手紙を読み終えると、深い静寂が部屋を満たした。千世の頬を、一筋の涙が伝っている。しかし、その表情には不思議な穏やかさが漂っていた。
「この手紙を読むたびに、私は息子との約束を思い出すんです」
千世は、長い沈黙の後、静かに語り始めた。
「息子は絵が好きでした。小さい頃から、何かというと絵を描いていて。火守先生に出会ってからは、本当に生き生きとしていました」
千世は立ち上がり、押し入れから別の箱を取り出した。中には、一枚の古いスケッチブックが入っていた。
「これは、息子が残した絵です」
ページをめくると、温泉街の風景や山路館の日常が、みずみずしい筆致で描かれていた。拙いながらも、そこには確かな生命力が宿っていた。特に印象的だったのは、縁側で裁縫をする千世の姿を描いた一枚。温かな日差しの中、微笑む母の横顔が、愛情を込めて描き込まれていた。
「たとえ息子はいなくても、この山路館を守っていかなければ。それが、私にできる唯一の使命だと思って……」
千世の声は、静かでありながら、強い意志に満ちていた。蒼一郎は、胸に込み上げてくるものを感じた。
「千世さん」
言葉を探しながら、蒼一郎は続けた。
「息子さんの夢は、決して消えていないと思います。この手紙に込められた想いは、今も確かにここに生きている。だから――」
その時、廊下から三味線の音が聞こえてきた。一紀の部屋から漏れる調べは、今日は特に物悲しく響いていた。
千世は、その音に耳を傾けながら、静かに微笑んだ。
「ありがとう、浅見さん。本当に、ありがとう」
窓の外では、夕暮れの風が庭の木々を揺らしていた。その光景は、まるで息子の手紙に描かれた風景そのもののようだった。
その夜、蒼一郎は久しぶりに筆が進んだ。千世の手紙が教えてくれた真実――芸術とは決して自己満足のためのものではなく、誰かに向けた魂の叫びであるという真実が、彼の中で明確な形を取り始めていた。
言葉が、自然と紙面に溢れ出してくる。それは決して華麗な文章ではなかったが、確かな温もりを持っていた。ちょうど、息子の残した素朴なスケッチのように。
夜が更けていく中で、蒼一郎は書き続けた。魂の言葉を求めて。