第四章:雨の記憶
八月が近づく頃、千世が体調を崩した。医者の診断では過労とのことだったが、それ以上に心の疲れが大きかったように見えた。
蒼一郎は灯子と共に、千世の看病を手伝うことになった。
「申し訳ありませんね」
千世は布団の上から、か細い声で言った。
「いいえ、千世さん。私たちにできることは、これでもまだ足りないくらいです」
灯子の言葉に、千世は微かに微笑んだ。
ある雨の降る日、千世は蒼一郎を枕元に呼んだ。
「浅見さん、押し入れの中に古い箱があるんです。取り出してくださいませんか」
埃を被った木箱の中には、一枚の油彩画が大切に包まれていた。画面いっぱいに描かれた温泉街の賑わいは、まるで今とは違う世界のようだった。
「息子が描いた最後の作品です」
千世の声が、静かに響く。
「火守先生に絵を習い始めてから、息子は生き生きとしていました。休みの日は写生に出かけ、夜遅くまでキャンバスに向かっている。そんな姿を見るのが、私の何よりの幸せでした」
蒼一郎は、黙って絵を見つめた。生命力に溢れた筆致。温かな色彩。そこには確かに、若き日の情熱が封じ込められていた。
「でも、戦争が全てを変えてしまった」
千世は、遠い目をして続けた。
「最後に届いた手紙には、『母さん、必ず帰ってきます。そしたら、もっと素晴らしい絵を描きます』と書かれていました。でも、その約束は――」
言葉が途切れた。雨の音だけが、部屋に満ちていく。
その日から、蒼一郎の中で何かが変わり始めた。人は、なぜ書き、なぜ描くのか。それは決して、自分の才能を誇示するためではない。魂の叫びは、必ず誰かに向けられている。誰かの心に触れることを、切に願っているのだ。
夜が更けても、蒼一郎は眠れなかった。机に向かい、ペンを走らせる。しかし、書かれた言葉は全て、上滑りしているように感じられた。
廊下を歩いていると、一紀の部屋から明かりが漏れていた。のぞいてみると、画家は一心不乱にキャンバスに向かっていた。左手で描く線は歪んでいるが、そこには確かな意志が宿っていた。
「入りなさい」
振り向きもせずに、一紀が言った。
「先生、こんな夜遅くまで」
「魂に休息は必要ない。なんだ。書けないのか?」
蒼一郎は黙って頷いた。
「当たり前だ。君はまだ、本当の痛みを知らない」
一紀は、左手の筆を止めた。
「芸術とは、痛みの昇華なのだ。己の傷を、光に変えること。それ以外の何物でもない。君にもいずれわかる」
その言葉は、蒼一郎の胸に深く沈んでいった。