第三章:画家の告白
梅雨が明けた直後の蒸し暑い夜、火守一紀は初めて自分の過去を語り始めた。普段は決して口にしない戦時中の記憶を、まるで堰を切ったように。窓の外では、蝉の声が断続的に響いていた。
「戦地で、私は多くの仲間の死を見た」
月明かりに照らされた一紀の横顔は、深い影を宿していた。額には細かい汗が浮かび、右手の包帯を無意識に掻く仕草が、何かを想起する痛みを物語っていた。
「最初は、ただの記録のつもりだった」
一紀は、古びたスケッチブックを取り出した。ページをめくると、鉛筆で描かれた無数の顔が現れる。眼窩の落ちくぼんだ兵士、包帯を巻いた若者、野戦病院のベッドで永遠の眠りについた戦友たち。どの絵にも日付と名前が記されていた。
「彼らは皆、故郷に帰りたがっていた。母にもう一度会いたいと切願していた。誰一人として、ここで死にたいとは思っていなかった。だが私には、ただ絵を描くことしかできなかった」
蒼一郎は、一紀の声に潜む深い懊悩を感じ取っていた。画家の言葉は、時に途切れ、時に早口になる。それは、長年封印してきた記憶が、制御できないように溢れ出てくる様子だった。
「ある日、新しく赴任してきた若い兵士がいた。まだ十九か二十くらいだったろう。彼は私の絵を見て、『先生、僕の肖像画を描いてください。生きて帰れたら、母に見せたいんです』と言った」
一紀は言葉を切り、窓の外を見つめた。月光が雲に隠れ、部屋の中が一層暗くなる。
「彼の肖像画を描き終えたのは、その二日後だった。しかし彼は、もうそれを見ることはなかった。私の目の前で、銃弾に倒れた」
画家の声が震えた。
「そのとき、私は気づいたんだ。私の絵は、単なる記録ではない。それは、魂の記録なのだと」
一紀は、机の引き出しから別のスケッチブックを取り出した。そこには、戦場で描かれた風景画が収められていた。茫漠とした砂漠、折れた椰子の木、焼け落ちた村々。しかし、それらの風景画の中にも、どこか人の気配が漂っていた。
「風景の中にも、人の痛みは宿る。空虚な砂漠には、行軍で倒れた兵士たちの足跡が。焼け落ちた家々には、そこに住んでいた人々の記憶が」
蒼一郎は、息を呑んで絵に見入った。一見、荒涼とした風景画に見えるそれらの絵には、確かに深い悲しみが刻み込まれていた。
「私が右手を負傷したのは、そんな絵を描いているときだった」
一紀は、包帯で巻かれた右手をじっと見つめた。
「爆撃の最中、私は必死でスケッチを続けていた。逃げろという声も聞こえた。しかし、私には描かずにはいられなかった。そのとき、破片が飛んできて――」
右手を撫でる仕草には、かつての記憶が横切るような痛みが滲んでいた。
「最初は、絶望した。画家として、これで終わりだと思った。しかし、不思議なことに、同時に安堵もあった。もう、これ以上の地獄を描かなくていい。そう思ったんだ」
月が再び顔を出し、部屋に青白い光が差し込んだ。一紀の表情が、一瞬くっきりと浮かび上がる。
「だが、それは逃避だった。私の魂は、まだ描くことを求めている。この左手で描く絵は歪で不格好だ。しかし、それこそが私の真実なのかもしれない」
一紀は立ち上がり、イーゼルに向かった。左手で筆を取り、おぼつかない手つきでキャンバスに向かう。
「見たまえ。この歪んだ線を。かつての私なら、こんな線は決して認めなかった。しかし今は、この歪みの中にこそ、魂の叫びがあると信じている」
キャンバスには、夕陽に染まる山々が描かれつつあった。確かに線は歪で、色彩も荒々しい。しかし、そこには不思議な生命力が宿っていた。
「芸術は、決して美しいものだけを描くのではない。醜さも、歪みも、痛みも、全てを受け入れ、昇華させていく。それが、真の芸術というものだ」
蒼一郎は、一紀の背中を見つめていた。その痩せた背中は、まるで過去の重みを全て背負っているかのようだった。
「若い君には、まだ分からないかもしれない。しかし、いつか必ず分かる時が来る。魂の叫びとは何か。なぜ私たちは書き、描くのか」
夜が更けていく。蝉の声も次第に弱まっていった。しかし、一紀の筆は止まることを知らなかった。それは、まるで魂の告白を完遂させようとするかのようだった。
「私の絵は、もう誰の目にも留まらないかもしれない。しかし、それでもいい。私は描き続ける。それが、生き残った者の使命だから」
その言葉には、深い決意と諦念が混在していた。蒼一郎は、自分の中で何かが大きく動くのを感じていた。芸術とは何か。表現とは何か。その問いは、彼の心の奥深くに沈殿していった。
夜明け近く、一紀はようやく筆を置いた。疲れ切った表情の中に、どこか清々しいものが宿っていた。
「さあ、もう休め。私も、しばらく休むとしよう」
蒼一郎が部屋を出ようとしたとき、一紀が最後にこう付け加えた。
「しかし、忘れるな。私たちは決して、逃げているのではない。ただ、魂の真実に向き合っているだけなのだ」
その夜を境に、蒼一郎の中で何かが変わり始めた。一紀の言葉は、彼の心の奥深くに沈殿していった。魂の叫び――それは、決して華やかな響きではない。むしろ、痛みを伴う真実の声なのだ。それを理解するまでに、彼はまだどれほどの時間を必要とするだろうか。
朝日が昇り始めた頃、蒼一郎は自室に戻り、机に向かった。ペンを握る手が、少し震えていた。