第二章:灯りの下で
梅雨の雨が、古い瓦屋根を叩いていた。蒼一郎は縁側に座り、庭に降り注ぐ雨を眺めていた。二ヶ月前、逃げるように辿り着いたこの温泉町で、彼は少しずつ自分を取り戻しつつあった。
「浅見さん」
灯子の声に振り返ると、彼女は提灯を手に立っていた。
「火守先生の様子を見てきたところです。今夜は特に痛みが強いようで」
蒼一郎は黙って頷いた。最近、一紀の容態は少しずつ悪化しているように見えた。
「灯子さんは、どうして看護婦になろうと?」
思わず口にした問いに、灯子は提灯の明かりを見つめながら答えた。
「私が十八の時、南方で従軍看護婦として働いていました。そこで見た光景は、今でも忘れられません」
灯子の声は静かだったが、その奥に深い感情が滲んでいた。
「負傷兵たちは、体だけでなく心にも深い傷を負っていました。でも、私たちにできることは、ただ包帯を巻き換えることだけ。その無力さが、今でも胸に刺さっています」
雨の音が、二人の沈黙を包む。
「だから決めたんです。人の痛みを、もっと深く理解したいと」
提灯の灯りが、灯子の横顔を柔らかく照らしていた。
その夜、蒼一郎は眠れぬままベッドに横たわっていた。灯子の言葉が、心の中で反響する。彼女は確かな意志を持って生きている。では、自分は何のために――。
翌朝、蒼一郎は一紀の部屋を訪れた。画家は珍しく穏やかな表情で、窓の外の雨を眺めていた。
「君は、本当の戦争を知らないだろう」
突然、一紀が言った。
「机の引き出しを開けてみろ」
言われるまま引き出しを開けると、古びたスケッチブックが出てきた。
「戦地で描いたものだ」
ページをめくると、鉛筆で描かれた兵士たちの姿が現れた。疲れ切った表情、虚ろな眼差し、包帯を巻かれた手足。夥しい死体の群れ。それらは皆、生々しい筆致で描かれていた。
「絵を描くことは、記録することでもあるんだ。この目で見た真実を、この手で刻み付ける」
一紀の声が、雨音に混じって響く。
「ところで君は、この雨の音をどう表現する?」
「え?」
「言葉で表現してみろ。今、聞こえているこの音を」
蒼一郎は言葉を探した。
「しとしとと……いや、もっと重たい音かもしれません。どこか物悲しい……」
「違う」
一紀が遮った。
「それは、借り物の言葉だ。君の心で聴け。君の魂で感じろ」
その言葉に、蒼一郎は息を呑んだ。確かに、自分は誰かの書いた表現を借りようとしていた。
その日から、蒼一郎は音に耳を澄ますようになった。廊下を渡る足音、湯気の立ち昇る音、畳を擦る箒の音。それらの一つ一つに、固有の生命が宿っているように感じられた。
町を歩けば、様々な人生の断片が目に入る。市場で野菜を売る老婆、理髪店の前で新聞を読む男、寺の境内で遊ぶ子供たち。彼らは皆、戦争を経て、それでも生き続けている。
ある夜、蒼一郎は千世が一人で仏壇の前に座っているのを見かけた。
「ああ、浅見さん」
千世は、慌てて目頭を拭った。
「実は、今日は息子の月命日なんです」
それまで、千世に息子がいたことを蒼一郎は知らなかった。
「戦地で亡くなったの。あの子も、絵を描くのが好きでした。火守先生の弟子だったのよ」
その夜、蒼一郎は長い間、机に向かっていた。しかし、一文字も書けなかった。心の中が、あまりにも重すぎた。
次の日、灯子が一紀の容態を気にかけながら、蒼一郎に話しかけてきた。
「先生、最近眠れていないみたいなんです。痛みも強くなってきて」
その声には、深い憂いが滲んでいた。
「私にできることは、ただ痛み止めを打つことだけ。でも、先生の本当の痛みは、もっと深いところにある」
蒼一郎は黙って聞いていた。
「先生は、絵が描けない右手の痛みより、戦争で多くの命が失われたことに苦しんでいらっしゃる。スケッチブックに描かれた兵士たちの姿が、先生の心を責め続けているんです」
灯子の洞察は鋭かった。そして、それは同時に温かさも持っていた。
「でも私は信じています。芸術には、人の心を癒す力があるって。だから先生は、左手でも必死に描き続けているんだと思います」
その言葉に、蒼一郎は強く心を揺さぶられた。自分は一体、何のために言葉を紡ごうとしているのか。ただ名声を得たいがためか、それとも――。
雨は、いつまでも降り続いていた。しかし、その音は最初に聞いた時とは違って聞こえた。そこには確かに、魂の響きがあった。