第一章:山路館にて
翌朝、蒼一郎は早くから館内の掃除を手伝っていた。長い廊下を磨きながら、昨夜の火守一紀との出会いを思い返す。魂の叫び――その言葉が、頭から離れなかった。
「浅見さん、お疲れ様です」
背後から声をかけられ、振り返ると、白衣を着た若い女性が立っていた。
「雨宮灯子です。火守先生の担当看護婦をしています」
凛とした眉目の中に、どこか温かみのある表情を湛えた女性だった。
「あの、火守さんは……」
「戦場で。右手に深い傷を負われて」
灯子の声は低く、静かだった。
「でも、左手で絵を描き続けていらっしゃいます。先生の魂は、決して折れていません」
その言葉に、蒼一郎は強い衝撃を受けた。自分は些細な挫折で逃げ出してきたというのに、一紀は重傷を負いながらも芸術への情熱を失っていない。
その日から、蒼一郎は一紀の部屋を訪れる機会が増えた。最初は警戒的だった一紀も、次第に心を開いていく。時には絵の話を、時には戦前の思い出を語った。
「君は、なぜこんな片田舎に逃げてきた?」
ある夕暮れ時、一紀はそう問いかけた。
「東京では、もう行き詰まっていました。書けば書くほど、自分の言葉が空虚に思えて」
「それは、君の言葉が他人の言葉だからだ」
一紀は、立てかけられたイーゼルに向かって左手でゆっくりと筆を走らせながら言った。
「本物の言葉は、魂の深みから湧き上がってくる。技巧や知識は、その表面にある器にすぎない」
蒼一郎は黙って一紀の筆さばきを見つめた。不器用な左手で描かれる線は歪んでいるが、そこには確かな生命力が宿っていた。
夜になると、廊下から三味線の音が聞こえてくる。一紀は、不自由な左手で必死に弦を弾く。時折、痛みのせいか呻き声を上げながらも、決して弾くのを止めない。
ある日、蒼一郎は一紀の看護を手伝う灯子と言葉を交わす機会があった。
「灯子さんは、ずっとここで?」
「ええ、父が町医者なんです。戦時中は従軍看護婦として、各地を回りました」
灯子の瞳の奥に、深い影が宿るのを見た。
「辛い経験もたくさんありました。でも、それがあったからこそ、人の痛みが分かるようになった。だから今は、この町で傷ついた人たちの力になりたいんです」
その静かな決意に、蒼一郎は心を打たれた。自分はただ逃げ出しただけなのに、彼女は戦争の傷跡と真摯に向き合っている。
それからというもの、蒼一郎は毎晩、原稿用紙と向き合うようになった。しかし、書けば書くほど、自分の言葉の不誠実さに苦しんだ。一紀の言う「魂の叫び」とは、いったいどのようなものなのか。
山路館での日々は、静かに流れていった。朝は掃除を手伝い、昼は町を歩き、夜は机に向かう。時折、一紀の三味線の音が聞こえ、灯子の足音が廊下を行き交う。
女将の千世は、相変わらず物静かに館を切り盛りしていた。しかし、蒼一郎は彼女の表情に、時折深い悲しみの影が差すのを見逃さなかった。
そして、梅雨の季節が近づいてきた。蒼一郎の心の中で、何かが確実に変化し始めていた。