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プロローグ:さまよう魂

 夜行列車が闇を切り裂いていく。窓の外には、月明かりに照らされた水田が果てしなく広がっている。浅見蒼一郎は、額を窓ガラスに押し当てたまま、暗い車窓に映る自分の影を見つめていた。


「まだ、僕が生きていける場所があるのだろうか……」


 二十五歳。大学を中退してから三年、作家を志して書き続けた原稿は、出版社から片っ端から突き返された。なけなしの金を握りしめ、彼は東京を離れることを決意した。行き先など、どうでもよかった。ただ、すべてから逃れたかった。


 夜が明けたころ、列車は小さな駅に滑り込んだ。駅舎に降り立つと、朝もやの向こうから温泉の湯煙が立ち昇っているのが見えた。


 蒼一郎は重いトランクを引きずりながら、石畳の坂道を登っていく。トランクの中身のほとんどは、原稿用紙と本だった。道すがら目にする街並みは、戦後の荒廃を色濃く残していた。映画館は廃墟と化し、料亭の看板は色あせている。


「どこへ行けばいいんだ……」


 つぶやきが、朝もやの中に溶けていく。そのとき、石段の上に古びた木造建築が姿を現した。「山路館」と書かれた提灯が、かすかに揺れている。


 玄関に立つと、磨き上げられた廊下が朝日に輝いていた。


「いらっしゃいませ」


 出迎えた女将は、五十代と思しき凛とした女性だった。久遠千世と名乗る彼女は、蒼一郎の風体を見ても、特に怪訝な表情を見せることはなかった。


「申し訳ありません。私は……宿泊代を、十分には……」


 言葉を濁す蒼一郎に、千世は静かに微笑んだ。


「もしかして、あなたは芸術家を志していらっしゃるの?」


 蒼一郎の腕に抱えられた原稿用紙の束を見て、彼女は問うた。その眼差しには、どこか懐かしむような色があった。


「はい。小説を、書いているんですが……まだ一度も……」


「芸術家には、温泉と時間が必要ですね」


 その言葉には、深い人生の真実が込められているように感じられた。


 こうして蒼一郎は、山路館に逗留することになった。二階の離れの一室を与えられ、風呂と食事を提供される代わりに、館内の雑用を手伝うという約束だった。


 部屋に通された蒼一郎は、荷物を解きながら、窓の外を眺めた。中庭には、手入れの行き届いた日本庭園が広がっている。しかし、苔むした石灯籠や、枯れかけた松の枝には、かつての繁栄を失った旅館の現状が垣間見えた。


 夕暮れ時、廊下を歩いていると、どこからか三味線の音が聞こえてきた。音は途切れがちで、時折、低い呻き声が混じる。音の主を探して廊下を進むと、離れの一室から灯りが漏れていた。


 襖の向こうでは、一人の男が左手で不器用に三味線を弾いていた。右手は包帯で巻かれ不自由そうに動かしている。


「誰だ?」


 男の鋭い声に、蒼一郎は思わず身を縮めた。


「新しく逗留することになった、浅見と申します」


「ああ、千世さんが言ってた作家志望の若造か」


 男は三味線を置き、蒼一郎の方を向いた。やせ細った顔に、鋭い眼光が光っている。


「火守一紀だ。まあ、入れ」


 蒼一郎は恐る恐る部屋に入った。床の間には、大きな油彩画が立てかけられていた。画面いっぱいに描かれた赤い夕陽が、今まさに燃え上がろうとしているかのようだ。


「あなたが、あの火守一紀さんですか?」


 火守の名前には聞き覚えがあった。

 戦前、新進気鋭の画家として名を馳せた人物。

 その消息は、戦後、途絶えていた。


「過去の話だ。今は、ただの廃人さ」


 一紀は、包帯で巻かれた右手をじっと見つめた。


「ところで君、なぜ小説を書くんだ?」


 突然の問いに、蒼一郎は言葉に詰まった。


「それは……人に何かを伝えたいから、でしょうか」


「違う」


 一紀の声が、暗い部屋に響く。


「芸術は、己の魂の叫びだ。他人に理解されようとされまいと、魂が求めるものを形にする――それだけだ」


 その言葉は、蒼一郎の心に深く突き刺さった。自分は何のために書いているのか。その問いは、これから幾度となく彼の心を揺さぶることになる。


 その夜、蒼一郎は久しぶりに机に向かった。しかし、ペンは一向に進まない。窓の外では、虫の声が響いている。温泉町の夜は、東京とは違う闇の深さを持っていた。


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