1-辺境伯の息子
第1部
山の稜線から朝焼けに染まった淡い黄赤色の光が寝室を照らし始め、夢うつつな辺境伯の息子は思わず顔をしかめる。惰眠を貪りたい願う・・・この憂鬱な時間が長引いてしまうのは絶対に嫌なので、自分の頬を叩いて布団から飛び出した。
慣れた手つきで手元にあるベルを3回鳴らすとその合図とほぼ同時に、
「失礼いたします」
と声をかけて扉を開けて入ってくる。
幼少の頃からの世話係兼教育係であるサルウィンはその怜悧な顔立ちに皆が唾を飲み込み背筋が伸びてしまう。しかし、彼はできるだけ頬骨の尖りを緩めるように口元を緩めて穏やかに声がけすることを心がけている。それにはもちろん理由があって・・・覚えていないのだがサルウィンとの初めての顔合わせの時に「怖い」と泣きじゃくって大変だったそうで・・・以後僕の前では笑みを忘れなかった。
「おはようございますルーク様。早速ですが、”サーミー”の礼服にお召し替えの用意ができております」
サルウィンの後に続いた女中は、水いっぱいのたらいを3階まで顔色かえずに持ってくると、すぐに洗髪の作業に移り、その後白無地の素朴な礼服に着替える手伝いをする。「ありがとう」と感謝の言葉を女中の顔色を窺いながら伝え、サルウィンのみを引き連れて自室を後にした。
1階まで降りてアーチ状の渡り廊下を通り、奥庭にある”水景園”を歩く。水面には”華王”と呼ばれる手のひらほどの大きな花びらがまるで絹のようにしなやかに辺り一面を覆い、色とりどりの花を咲かしている。
「先週はまだ蕾だったのに、毎年のことながら壮観だな」
ルークは消え入りそうな声で囁くと、サルウィンはただにっこりと微笑みお辞儀をする。
”水景園”の中央には、半円を取り入れた小さな聖堂がひっそりと佇み、数理的秩序によって調和された静的さには荘厳さを隠しきれない。
ルークは深く呼吸し息を整えて聖堂に入ると、すでに家族全員揃っていた。見事な髭を蓄えた辺境伯パウロ・S・バロバロッサ”はルークと目があうと目尻に皺を寄せて口元を緩める。
「さて皆揃ったな。 ルーク、お前がサーミーの儀式を執り行いなさい」
「かしこまりました」と、ルークは恭しく答えた。
信仰する龍神像の手前には燭台があり、一見すると、何の変哲もない片手で持ち上げられるぐらいの岩石が燭台の先端に突き刺さっている。ルークはその岩石に触れて、太陽の心地よい暖かな光を頭の中に思い浮かべると、目をつむり、心の中でつぶやく
「輝け」
瞬く間に岩石が胎動を始め自らの力によって発光する。その様はまるでスタンドグラス越しに輝く幻想的で温かみのある光が周囲を照らすかのよう。
この岩石は”龍神石”と呼ばれ、”龍神”の血を継承する者が龍神石に干渉することで”天福”を引き起こすことができる。
聖堂のいたる所に埋め込まれた小さな”龍神石”は、りんごが重力によって落下するが如く、自然の摂理に従って当然のように共鳴しあい自ら発光する。
我々は両膝を地面につけて両手を組み、神の恩寵に感謝の祈りを捧げた。
儀式を終えて、ルークとサルウィンを残して皆が退出したのを確認すると、安堵のため息をつきながら龍神石を視界に入れて指を鳴らす。瞬間、龍神石は輝きを失い、ただの岩石に戻った。
天福が消え去った聖堂の高窓からわずかに入ってくるか細い筋の光はどこか頼りなく、見ていると不安な気持ちになる。
サルウィンが聖堂の扉を閉めると、ふたりは家族のいる食堂へ早足で向かう。外の太陽の暖かな陽気と、たまに吹くそよ風が本当に心地よく・・・ルークは鼻歌を口ずさみ今日の天気に感謝した。
♦︎♢♦︎
「頂くとしよう」
父上が家族を見渡して挨拶を終えると、グラスに注がれたワインに手を伸ばす。
ルークは5人兄弟の内、三男として生を享けた。現在、長男と次男は騎士の称号を得る修行のために帝都へ赴いている。海から渡ってくる蛮族から領土を守護する者にとって”騎士”の称号を賜ることは必須条件なのだ。騎士の称号は部下たちからの信頼を得るのに大いに役立ちそして、統率力に疑う余地もないほどに明らかな差がでてしまう。
「血統だけの無能な上官には命を預けられないのだよ」
と、ルークの目をじっと見つめながら話す兄上の刺すような視線、、、王都へ赴いたふたりの兄の空席となった椅子を眺めるたびに思い出してしまう。
その時だった、パチン!と母上は手を叩き、驚いた僕の顔を一瞥し、手元にあるナプキンで丁寧に時間をかけて口を拭くと、オホンと喉を鳴らす
「ルーク、あなたは次期当主として王より賜ったこの領土を治めなければならない立場なのです。ぼーっと口を半開きにして己の世界に閉じこもるその悪癖、、、他所様が見たら鼻でははっと笑われるますよ。いつになったら治るのでしょう?」
ルークは謝ろうと勢いよく席を立つと、机に体がぶつかり自分のグラスから水がこぼれてしまった。緊張し高揚した顔つきが瞬時に青ざめ冷や汗が流れる。
今まで傍観していたルミィーは笑いを必死にこらえようと口を固く閉じていたが、やはり耐えきれない様子でくすくす声をできるだけ押さえながら母と兄の会話に割って入った。
「本当にルークお兄様は考えていることがそのままお顔に出てしまうのですね。お母様、それでもこれはお兄様の美徳の一つですわ。戦争に明け暮れた時代においてはこの美徳は害悪になり兼ねませんが、今は天下泰平な世なのです。1番大切なのは善良さですわ。」
鎖骨まで伸びたブロンドの髪を揺らして朗らかな笑みをこぼしウインクをする。
「それに、政は私が担うのですから嘘がつけなくても全く問題ありません。」
年相応の姿から不意に現れる鋭い眼光は野心的で異彩を放っていたが、すぐにその様相は隠れ普段の穏やかな顔つきに戻っている。
「ええ、確かに善良さはルークの美徳です。ええ、それは認めましょう。ですが、口を半開きにすることと慌てて水をこぼすことはその善良さに含まれるのですか?話をずらすのおやめなさい。」
「バレちゃいました?」
イタズラっぽく舌を少し出して笑うルミィーの表情に母上はやれやれとこめかみを押さえながら失笑している。ルークよりふたつ下(14歳)のルミィーにはいつも頭が上がらない。
♦︎♢♦︎
「あぁ−!またやってしまった、、、このままではダメだ」
ルークは今、パウロ辺境伯が治める領土”サラマンド地方”の中で最大の聖堂である聖火教会にて、そこに併設された王立学院の中庭でひとり、食堂での出来事の失態を解消するべくひたすら剣の稽古に励んでいた。
中庭の中央には龍神石が鎮座し、水の天福を受けて絶え間なく噴出している。
ルークは訓練を終えると、汗でうねった髪を整えるために噴水に頭を突き出して水を浴びた。もやもやと抽象化した焦りや怒りが冷水をかぶることで雪解けのように溶けてなくなっていくこの感覚はやっぱり気持ちがいい・・・
すると、
「水遊びするには悪くない気温だな」
聞き慣れたカラッとした声が水を通過してくぐもって聞こえてくる。
ルークは後ろを振り向き、片方の目尻を下げて笑っている相手をブスッとした態度で見つめる。ロックは王立学院の同期であり、幼少の頃からの腐れ縁だ。短身ではあるが、堀が深く目鼻立ちが整っており淑女でさえ我を忘れて彼に見入ってしまうほどの顔立ちをしている。
「ほれ」ロックは片手をポケットにつっこみながらもう片方の手でタオルを放り投げた。この粗雑さのせいで皆幻滅し去っていくのだが、、、いくら注意しても省みる様子はない。
「次の講義に遅れちまうぜ?休み時間ぐらいゆっくり休めばいいだろ、なーにを焦ってんだか」
「そんなことはわかってるよ、ご親切にどーも」
ルークは不満そうにジトっとした目つきで答えた。(お前は俺の母上か、、、)
一方、ロックは少しも意に介さずあくびをしながら腹までかいている。ロックの太々しさになぜか安堵している自分に気づいて自嘲する。
ルークは身だしなを整えると、ロックの身だしなみも整えさせて、早足で離れにある教室へ向かった。