ワタシがやった理由は
「だーかーらー!私がカノンなんです!カノン・リヴィルなんです!」
開け放っていた窓の外から、甲高い幼い女の子の声が聞こえて来た。
何事かと覗き込んで見れば、屋敷の前で門番たちと白衣を着た小柄な女の子が言い合いをしているのが見えた。
身長は150センチほどで、真っ赤な瞳に雪色の髪、頬が餅のようにふっくらしていて、頭には大きなリボンが乗っかっている。
一目見ただけでは子供にしか見えないその女の子は、今にも噛みつきそうな表情で門番に何か文句を言いつづけている。
慌てて部屋を飛び出し彼らの元へ向かうと、僕は頬を破裂しそうなほど膨らました女の子と、門番の間に体を入れ
「初めまして、貴方がもしかして。」
「ん!ご依頼頂きましたカノン・リヴィルです!カノンって呼んでね!それはそうと、ちょっとこのヒゲのおじさんに何か言ってやって!本当に失礼しちゃうんだから!」
真っ赤になって吠える彼女に謝罪を入れて、なんとか彼女を屋敷の中へと招き入れた。
「うわぁ、外から見た時も思ったけど、おっきい家ですね。迷子になったりしません?」
「あはは、広いだけですよ。今じゃ住んでるのは僕と祖父だけになりますがね。」
他愛のない話をしながら、僕たちは目当ての部屋の前へとたどり着いた。
コンコンと部屋の扉をノックすると、中からどうぞと聞き慣れた声が返って来た。
「失礼します。ルカです。お客人がお見えになりましたので、お連れいたしました。」
声をかけながら扉を開く。
すると、窓際に大きなベッドと、隣にある鍵付きの棚の上の白い花瓶に枯れた朝顔の花が生けられているだけの、些か広さに対して物が少ない部屋が姿を現す。
そんな部屋の奥にあるベッドで、横たわっていた白髪の男性が嬉しそうに目を細めながら体を起こした。
「カノンさん、こちらが僕の祖父です。お爺様、こちらはカノンさんです。」
「そうですか、貴方が噂の・・・・・・」
祖父が興味深そうにカノンさんの顔を見つめる。
「な、なにかついてます?」
「いえ、思った以上に可憐な方が来てくれたと嬉しく思っていたところです。」
微笑みながら言った祖父の言葉に、カノンさんは頬を赤らめ、へへへと笑った。
見た目にふさわしい子供らしい笑顔を浮かべたかと思うと、カノンさんはふとその笑顔を潜めて
「もっと褒めて欲しいところですけど、時間の猶予はないのですぐに始めましょう。掌を出して少し待っていてください。」
柔らかい彼女の言葉に、祖父はゆっくりと頷いた。
カノンさんは白衣のうちポケットから小さな折りたたみ式のナイフを取り出して自らの手のひらを軽く切り裂いた。
小さな白い手のひらから、一筋の血が流れ始めた。
突然女の子が自分の手のひらをナイフで切り裂くという現実離れした光景にあっけに取られていると、カノンさんは流れ出した血を使って祖父の掌に呪文を描き始めた。
器用に描く姿は、彼女が何度も経験していることを感じさせる。
「これで、大丈夫です。すぐに痛みは引いていきます。」
カノンさんの言葉の通り、すぐに祖父の顔から今までの苦しみの色は消え去り、その代わりにまるでお化けでも見つけたかのような顔をした。
それから、体の調子を確かめるように肩をぐるぐると回すと、勢いよくベッドから跳ね起きて
「痛くない!もうどこも痛くないぞルカ!」
心底嬉しそうに表情をほころばせて、祖父は両腕を天に掲げた。
“アッシュ”
この世界に突如蔓延した不治の病の名前だ。
発症した人物は身体中に激しい痛みを覚え、やがて四肢の末端から灰のように崩れて一年以内に死んでいくという病だ。
半年ほど前に祖父はその病を発症し、今日までベッドの上で痛みに耐え続けていた。
なんとか治療法はないものかと探していた僕に、町の医者が不思議な話を聞かせてくれた。
それが“シスター”と呼ばれる女性たちの存在だった。
彼女たちはアッシュを患った人たちの苦痛を和らげてくれる、世界でたった一つの存在らしい。
正直眉唾ものの情報だったが、藁にもすがる思いなのだ。可能性が少しでもあるならやってみるしかないのかもしれない。
そんな疑心と期待を抱いていた僕だったが、同様に僕の隣でその話を聞いていた祖父が、是非ともその女性たちに会わせて欲しいと懇願したのだ。
「真偽はともかく、不治の病にかかった人々を助けようなんて、実に立派な志をお持ちの方達じゃないか。それに、もしもこの話が本当だったら、これほど嬉しいことはないだろう?」
微笑む祖父に、僕は返す言葉を持ち合わせていなかった。
まあ、こんなことを言っては申し訳ないが、もう祖父の命は長くはない。
だから、せめて最後に好きなことをさせてあげようと屋敷に住むものたちから言われていたので、僕は祖父が彼女たちに会うことを許可した。
きっと素敵な女性たちに違いない。
例えば一昨年死んでしまった私の妻のように、聡明で綺麗な大人の女性が来てくれるはずだ。
毎日祖父がいつもの様な惚気半分の話を屋敷中の人たちに言い聞かせていたものだから、僕も、そして門番でさえやってくるはずのシスターが“綺麗な大人の女性”だと思い込んでいた。
だから、今日門の前に現れたカレンの姿を見て僕も門番も彼女が祖父が待ち焦がれていたシスターだと認識することができなかったのだ。
元気そうに体を動かす祖父に、カノンさんは少しだけ悲しそうな顔をして言った。
「痛みがなくなったからと言って、アッシュが治ったわけではありません。今この瞬間も、アッシュは貴方の体を着実に蝕んでいます。おそらく、進行状況から考えると」
「大丈夫です。自分の体が長くないことは、誰よりも自分自身が理解しています。」
カノンさんの言葉を遮り、祖父は俯いてしまったカノンさんの肩にそっと手を置いて
「それでも、病床で痛みに耐えながら死を待つだけだった私を救ってくださったのは間違いなく貴方です。改めてお礼を言わせてください。本当にありがとうございます。」
柔らかく微笑む祖父を見て、カノンさんは驚いたように目を見開いたかと思うと、今度は見た目にふさわしい少女のような可憐な笑顔を浮かべて大きく頷いた。
正直、これだけでも僕たちにとっては大変喜ばしいことだったのに、彼女は肩に置かれていた祖父の手を力強く握ると
「さて、痛みがなくなったところで本題に入りましょう。私たちシスターの仕事は、アッシュの患者さんたちが最後にやりたいことをお手伝いすることなんです。おじいさん。最後に、私に何か手伝って欲しいことはありますか?なんでもいいですよ!」
真剣な表情で尋ねるカノンさんに、祖父は少しだけ何かを考え込んでからベッドのそばにあった引き出しの中から一冊のノートを取り出してカノンさんに手渡した。
「実は、病床に伏せてからというものやりたかったことをぽつり、ぽつりとこのノートの中に書き溜めて置いたのです。全部とは言いませんが、もしよろしければこの中の一つでも」
「いえ!全部やりましょう!せっかくやりたいことをこれだけ考えてくれたのに勿体ないじゃないですか!」
祖父の言葉を遮るように発言した前向きな彼女の姿勢に、祖父は小さな声で彼女に礼を言った。
そうして祖父とカノンさんが楽しそうに話しているのを部屋の隅で見つめていると、不意にカノンさんが白い髪を揺らしながら勢いよくこちらを振り向き
「あ、もちろん君も一緒だからね!最後までよろしくね!」
屈託のない笑顔を浮かべて僕に言った。
え、なんで僕まで?
思わず祖父に顔を向けると、祖父はニンマリと久方に見る楽しそうな笑みを浮かべて
「断っても構わない。ただし、その場合はルカの来月の小遣いはカノンちゃんの財布の中へと消えることになるぞ。」
拒否権がないなら最初からそう言えよ。
そんな言葉を返す代わりに、僕は大きなため息をこぼした。
次の日から祖父とカノンさん、そして僕の三人はノートに書かれている死ぬまでにやりたいことを解決していくことになった。
内容は様々だった。
例えばカップル専用の猫カフェに入ってみたいとか、腕が上がらなくなる限界までキャッチボールがしたいとか。
これらの願い事はまだ可愛い方だったが、白衣のドレスを着た花嫁を結婚式場から連れ去りたいと言われた時は流石に僕もカノンさんもどうしたものかと困り果てた。
悩んだ結果、教会を貸し切りにしてから屋敷の家政婦さんが花嫁ドレスを着て僕と婚姻の儀を交わす真似事をして、そこに祖父が突如現れて花嫁を奪い去っていくという三文芝居もビックリのシナリオを描いて実行するに至った。
まるで無邪気な子供が思い描いた夢をなぞるかのように、朝起きてから日が暮れるまで祖父のやりたいことを解決していった。
先日まで病床で苦しんでいた姿から想像できないくらい祖父は元気で、本当にあと少しで死んでしまうのかと疑いたくなるくらいだった。
もしかしたらこのまま祖父の体は治ってしまうのではないかと思えた。
しかし、もちろんそんな都合の良い輝石はこの世界に起こるはずもなかった。
そのことに気が付いたのは、祖父のやりたいことが残り半分を切ったころだった。
その日、誰かが落としたハンカチを落とし主に届けてあげたいという願いを叶えるために街の中を歩いていた時のことだった。
意気揚々に僕たちの前を歩いていた祖父が、突如その歩みを止めた。
どうしたのかと訊ねながら祖父の前に回り込んで、僕は思わず言葉を失った。
祖父は、量の目からおびただしい量の血を流していた。
「あれ、なんだこれは?」
祖父自身も自分の身に起きていることが信じられないみたいだった。
ゴシゴシと目元を服の袖で拭うが、一向に血の涙は止む気配を見せない。
そして、祖父はそのまま意識を失って地面に倒れた。
急いで屋敷に連れ帰った僕に、カノンさんは申し訳なさそうに言った。
「思ったより病気の進行が早いみたいです。このままでは、やりたいことを全てやり終える前におじい様は……。」
最後の時は目の前に迫っていたと分かっていた、ちゃんと覚悟もしていたはずなのに、いざこうして対面してみると、僕の覚悟はいとも簡単に打ち砕かれた。
「今はベッドで眠っていますが、もしかしたら目を覚ましたころには手足を満足に動かすこともできないかもしれません。」
「そんなっ!まだまだ祖父はやりたいことがあるのに、どうにかならないんですか!?」
「こればかりは私たちにはどうすることも出来ません。私には、病を治すのではなく、最後の時まで痛みを取り除き続けることしか出来ないんです。ごめんなさい。」
「そ、そんな…あんなに、あんなにいきいきとやりたいことをやれていたのに!カノンさん何とかならないのですか…!なんとか、なんとかできるのではないですか?!」
俯いて話すカノンさん僕は詰め寄った。気づけば肩をつかむ手が食い込んでいる。
そうして、僕たちが屋敷の廊下で向かい合っていると
「こら、ルカ。女の子にそんな乱暴をするものではない。」
聞き覚えのある声に振り返ると、そこには家政婦さんに押された車いすに座る祖父の姿があった。
「お爺様。もう動いても平気なのですか?」
「ああ、お前たちがすぐに屋敷まで運んでくれたおかげで何とか助かったよ。二人とも、本当にありがとう。」
嬉しそうに礼を言う祖父を見て、ようやく僕は一安心することが出来た。
祖父は家政婦さんに礼を告げると、自ら車いすを操作して僕たちの元へと近づいて言った。
「見ての通りだが、どうやらもう私は自分の足で歩くことが出来なくなってしまったらしい。だから、手伝ってもらって申し訳ないが、死ぬまでにやりたいことはここまでだ。」
「え?」
カノンさんが声を漏らした。
「で、でも。まだまだ時間はあるんですよ?確かに歩くのは難しいかもしれませんが、それでも何か別の方法を考えれば、私もお手伝いしますから。」
「そこまで迷惑をかけるつもりはないよ。君のおかげで最後に今日まで好き勝手することが出来たんだ。もう十分、私は私の人生に満足したんだ。」
いつもと変わらない、優しい笑みを浮かべる祖父の瞳からは、一点の不安や諦めなどの負の感情を感じ取ることが出来なかった。
祖父は本当に自分の人生に満足して、最後のその時を受け入れる覚悟をしている様だった。
そんな祖父の姿を見て、僕にはもう返す言葉は見つからなかった。
本人がそう言うのならば、僕が横から何かを言うのはお門違いだと言うものだ。
僕に出来ることは、その時が来るまで静かに祖父のそばにいることだけだ。
諦めにも似た虚しい感情が胸の内に広がるのを感じ、情けないことに涙が零れそうになった。
一番辛いはずの祖父が涙を流していないのだから耐えなくてはいけない。
そう思って僕が祖父から顔を逸らして視線を天井に向けた時だった。
「………本当に、おじいちゃんはそれで良いんですか?」
隣にいたカノンさんが、静かな声で言った。
顔を向けると、カノンさんは今にも零れそうなほど大きな瞳に涙を浮かべて
「一番の願いがあるんじゃないですか?」
訊ねたカノンさんに、祖父は大きく目を見開いた。
「……どうしてそう思ったのですか?」
唐突な展開にまるで理解が追い付かなかった。
どうして彼女は突然そんなことを言いだしたのか分からなかった。
そんな僕の疑問を見透かしたように、カノンさんは話し始めた。
「この数日間、おじいちゃんの願いを叶えてきました。無作為に見えていた願いですけど、一つだけ共通点がありました。それは、どの願い事も一人ではできないということです。」
言われてようやく気が付いた。
確かにキャッチボールも、カップル専用の店に入ることも、結婚式に乗り込むなんてことも、全て相手がいてこそ成り立つものばかりだった。
言葉を失っていた僕と祖父に、彼女は静かに話を続ける。
「おじいちゃん、あなたは一昨年に奥様を失っていて、屋敷の人たちの話では、あなたと奥様はとても仲が良くて、亡くなった後も毎日のように奥様の自慢話を聞かせてくれたと聞いています。それなのに、あなたの部屋には奥様の写真が一枚も無くて、あるのは枯れた朝顔の活けてある花瓶のみでした。」
「………。」
「もしかして、おじいちゃんは奥様に何か悲しいことがあって、そのせいで奥様の写真をしまっちゃってるんじゃないかって...」
カノンさんがそう言い終えると、祖父はふと口元を緩めて微笑んだ。
「……私と共に部屋まで来てくれますか?見せたいものがあるのです。」
そう言って、祖父は僕に車いすを押すように命じると、カノンさんと三人でお爺様の部屋へと向かった。
そして、ベッドのそばの棚にある鍵付きの棚を開くと、中から一枚の古びた写真を取り出した。
見てみると、そこには満面の笑みを浮かべた女性の姿が写っていた。
「私の妻だ。彼女とは昔馴染みと言う奴だった。幼いころからいつも一緒にいて、気が付いたら友情は愛情へと変わっていた。彼女との時間は毎日が楽しくて、二人で笑いあいながら老いて行けると信じていた。だけど……。」
写真を眺めていた祖父の瞳から一筋の涙が流れた。
その涙を皮切りに、祖父の瞳から次々と涙の雨が降り注いだ。
「私はあの日、妻と喧嘩をした。仕事で帰りが遅くなっていたことを心配してくれた妻に、余計な口出しをするなと声を荒げてしまってな。妻は家を飛び出した。いつもの様に後を追いかけたが、その日に限って私は妻の姿を見つけることが出来なかった。そうして捜索を続けて一時間が経った頃、妻は路地裏で何者かにナイフで喉元を切られた姿で発見されたんだ。」
悔しそうに呟く祖父の姿に、僕は当時の光景を思い出した。
降り注ぐ雨の中、血に濡れた祖母を抱きしめて泣き叫ぶ祖父の姿を。
「あの日、私が感情に任せて彼女に酷いことを言わなければあんなひどい事件に巻き込まれることはなかったんだ。あの日から、私は彼女の顔を見るたびに申し訳なさで気が狂いそうになるんだ。だから、彼女の元に行く前に、少しでも彼女のやりたいと言っていたことを私が代わりにやってあげようと思ったんだ。自己満足なのは分かっている。だけど、私には他に彼女に償う方法が見つからなかったんだ。」
絞り出すような声を響かせる祖父は、まるで身を焼かれているように表情を歪めながら写真を棚の中へと戻してしまった。
そんな祖父の姿を見て、カノンさんは
「……でしたら、たった一言だけ謝ってあげてください。奥様の大好きな朝顔を持って、ごめん、一緒に帰ろうと言ってあげてください。」
発せられた彼女の言葉に、祖父も僕も思わず耳を疑った。
「どうして君が彼女の好きな花を?いや、それどころか、その言葉は。」
「はい。喧嘩した時、家を飛び出したあの人にいつも言っていたセリフです。奥様は何よりもその言葉を待っていると屋敷の人たちに伝えていました。あなたが自分の大好きな朝顔の花を持ってやって来てくれるのをいつも心待ちにしているって。だから」
そう言って、カノンさんは花瓶にある枯れた朝顔の花を手に取り、それを祖父の手にしっかりと握らせ
「きっと届きます...私が届かせます。あなたの愛した人は、あなたのことをきっと許してくれますから。」
カノンさんの言葉に、祖父の瞳からまた涙が零れ落ちた。
「ここで良い。後は自分で何とかしてみるよ。」
そう言って、祖父は墓地の入り口で杖を使って車いすから立ち上がり、おぼつかない足取りで歩き出した。
見ていて不安だったが、ここから先は二人だけにしてあげようとカノンさんが言い出したのだ。
「シスターって言うのは、毎回こうやって誰かのお節介をするのか?」
僕が訊ねると、隣で祖父の後姿を見つめていたカノンさんが少しだけムッと口を尖らせた。
「余計なおせっかいで悪かったですねっ!」
「いや、そう言う意味で言ったんじゃない。君は祖父の体が動かなくなった時に、何も言わずに黙っていることもできたはずだ。黙っていれば、祖父はあのままベッドのそばで静かに息を引き取り、貴方はそれを見ているだけでも良かったはずなのに。」
僕の発言に、彼女はぽかんとした表情をしたが
墓の前で静かに微笑んでいる祖父の姿を見つめながら
「だって、あのままだとおじいちゃんは幸せになれないと思ったんです。奥様は幸せだったのに、あっちの世界で出会った時、おじいちゃんだけが暗い顔をしてるなんて悲しいじゃないですか」
そう言って、彼女は透き通るように美しい髪を風になびかせて微笑んだ。
それから数日して、ついにカノンさんが屋敷を去る日がやって来た。
本当は祖父が息を引き取るその瞬間までそばにいるはずだったのだが、祖父がこれ以上ここで引き留めていてはいけない。
カノンさんはこんなところで立ち止まらず、更にたくさんの人を救ってほしいと頼み込んだのだ。
「もう少しだけ屋敷のフカフカベッドで眠りたかったな。」
悪戯っぽく微笑みながら、カノンさんは屋敷の玄関で僕と向かい合った。
小柄な体にぶかぶかの白衣。
初めて見た時はお医者さんごっこをしている子供かと見間違えたこの姿も、今日で見納めと思うと少しだけ寂しかった。
「またいつでも遊びにおいでよ。」
僕が言うと、彼女は心底嬉しそうに頷いた。
そして
「そうだ、最後におじいちゃんにお別れをしてきても良い?実は今日は帰りの準備でバタバタしてて一度も顔を合わせてないんです。」
「そうだったのか?それじゃあ急いでいってくると良いよ。もうすぐ迎えの車が来てしまうから。」
「分かった!」
ドタバタと足音を立て、カノンさんはお爺様の部屋へと駆けこんだ。
それから少しして、カノンさんはニッコリと満面の笑みを浮かべて部屋から出てきた。
「凄く嬉しそうだったよ、おじいちゃん。」
「それはそうだろうね。二年間胸に抱え続けた悩みが解消できたんだから。」
「少しでも力になれたんだったら嬉しいな。」
「少しなんてものじゃない。君のおかげで、お爺様は一番幸せな時間を送れたはずだ。本当に、ありがとう。」
僕が頭を下げると、彼女はへヘヘと照れくさそうに笑ってから迎えの車へと乗り込んだ。
「それじゃあ、またね。」
窓からそう言った彼女に、僕は姿が見えなくなるまで手を振り続けた。
カノン・リヴィル
僕はきっと、彼女の名前を一生忘れることはないだろう。
車が見えなくなると、僕はゆっくりと手を下ろして屋敷の中へと戻った。
それから、カノンさんが無事に出発したことをお爺様に教えてあげようと部屋を訪れた。
コンコンとノックをして、ベッドに横たわっているであろうお爺様の姿を思い浮かべ、僕は静かに扉を開いた。
そして
「………え?」
扉の中に広がっていた光景に、僕は言葉を無くした。
そこにあるのは、ベッドの上に横たわるお爺様の姿のはずだった。
しかし、そこにあったのは部屋一面に咲く赤い色、そして、その中心のベッドで幸せそうな眠り顔をは不釣り合いなパックリと割れた喉元を覗かせるお爺様の姿だった。
あぁ、良かった。
今回も幸せなまま送り届けることが出来たぁ。
血で真っ赤に染まった折り畳み式のナイフを見つめながら、私は充実感に包まれていた。
ナイフに付着した血液は、先ほど私がおじいちゃんとお別れをしたときに付いたもの。
痛みもなく喉を切り裂いてあげられて良かった。
おじいちゃん、とっても幸せそうな顔してたなぁ。一番幸せだったって言ってくれたし。
でも、本当に私が傍に居てあげれて良かった。
あのまま生きてても、幸せが減っちゃうだけで、私がお別れさせてあげなきゃ不幸になっちゃう所だったしね。
これで、おじいちゃんは最高の幸せを抱えたまま天国へ行けたはず!
それにしても、びっくりしちゃったなぁ。
まさか私が、前に不幸になりそうな所から救ってあげた女の人の夫に会うなんて。
その時のことは、今でもよく覚えてる。
雨の中が降ってるのに傘もささずに楽しそうに階段に腰かけてて
たまたま通りかかった私が心配してどうしたのか訊ねると
「この時間がたまらなく楽しいの。この後、彼が私の大好きな朝顔を持って謝りに来てくれるの。それから、私たちは腕を組んで家に帰るんだけど、私はこうして彼を待っている時間が何物にも代えられないくらい好きなの。」
って、これまでに出会った誰より幸せそうな顔をしていたんだ。
その顔を見た瞬間、私は急いで幸せのまま不幸になる前に助けてあげなくっちゃって思ったんだよね。
「……って、そう言えばおじいちゃんと奥様を両方幸せに送ってあげたってことは、さしずめ幸福のキューピットみたいじゃない?キューピットかぁ、へへへ」
私がおじいちゃんに永遠の幸せを届けたことで、二人は向こうの世界で出会えてずっと一緒なんだから。
そのことに気が付いた瞬間、私の胸の中に感じたことのないほどの幸福が膨れ上がった。
私は抑えきれない興奮と、幸福感で火照った体を冷ますため車の窓を開けて、冬の冷たい風を浴びた。