未だ亡くならざるひと
許のお嬢さんが少し鬱展開です。
寡婦の寡という字は、すくないという言葉だ。
力や徳が少ない、人数が少ない。そんな意味がある。家族が少ないつまり独り者、伴侶を亡くして一人になった人に付けられた字は、どこか淋しさがある。帝さまとか、大昔の国の主の自称の一つでもあるそうだけれど、それは謙遜して使う類のもので、どちらかというと踏ん反り返って「朕」とか「余(同じ音で他に予、世なども使われる)」と言う国主の方が多いような気がする。……多分。
それはともかく。齢十三の寡婦。それが今のわたしだ。
世間では、正月に元服をお迎えになった当代の帝さまを祝う、華やいだ雰囲気がまだ漂っているというのに、わたしの周りだけは矢鱈と重い空気が立ち込めている気さえする。両親は早くまとめすぎた縁談をまだ悔やんでいるし、使用人は多くはないけど、腫れ物に触れるような扱いだ。先の帝さまの御代の頃は女性の離婚歴はあまり問題になっていなかったらしいのに。もし今もそうだったら少しは気分が楽だったろう。両親が。
わたし自身は然程苦にしている訳でもないけれど、世間的には前途が閉ざされたと思う人も多い境遇だから、単純に結婚が無くなったことを歓迎してもいられない。何より、人の命が絡んだ事態だったのだ。
「夫」であったひと、欧侯さまの葬儀は、恙なく済んだと聞いた。祝言が終わった夫婦であれば、喪主はわたしが務め、夫の喪に服して一生を終えるということになっていたはずだが、顔も見ぬままに泉下の客となった人とは、月下冰人の縄は結ばれていなかったらしい。尤も、欧侯さまも、見たことも会ったこともない妻に弔われるのは微妙な気分になったことだろう。結ばれるべき男女の足の指は、赤い頑丈な縄で結ばれているという話だけれど、それならわたしの縄は誰に結びついているのだろうか。わたしの結婚は両親が決めるだろうけれど、もし赤縄が目に見えるものなら、いっそ縄をどこまでも辿って未来の夫を捕まえてみるのだけれど。
そんなことを思ってみるのは、そろそろ春に向かおうとする季節に、いつまでも重苦しさを抱えていたくはないからだ。試みは成功しているとは言い難いけれど。親が娘の結婚相手に求めるのは安定や富や社会的な地位などであったりする。娘より遥か年上であっても、裕福で、娘を大事にしてくれるというのであれば両親は喜んで縁組を整えてしまいそうだ。幼馴染などは縁組はそれはそれとして、見目のよい、やさしい男を恋人に持つのだと鼻息を荒くしている。その子は確かにとても整った顔立ちをしているし、時折男性から声を掛けられているようだけれど、初潮が来ればすぐにでも婚姻となるのに、のんびりと恋人を作っていたらそれはどうかすれば不貞になるのではないかと案じている。本人を目の前にしては言えないが。
親が決める縁談に、求めることが出来ることは多いとは言えない。ただ、もし出来るのであれば、嫌悪感を催さない程度の容姿と、お互いの認識をすり合わせることが出来る程度の知性と、穏やかな性格を持って、浪費家でない男性がわたしの夫になってくれたらいいのだけれどと、些か贅沢なことを思ってみる。頭で考えるだけなのは、わたしにとってもまだ新たな夫というものが実感を持って想像出来るものではないからだ。これから先、結婚して子を生み育て、老いていくまでの時間がどのくらい残されているかは判らないけれど、仮に四十歳ほどで身罷るとしたら、わたしに残されている時間はあと二十七年ほどということになる。今まで生きてきたよりも、もっとずっと長い時間を血の繋がらない人と結ばれ、家族になっていくなら、信頼出来る人が望ましいように思えた。
ふ、と淡い面影がわたしの中を風とともに過った。
どこか飄々とした空気をまとう、端正な面立ちの少年が。
あのときの彼は、わたしにそれとなく好意を伝えてくれていた。わたしが既婚者だったために、匂わせる程度に留めてくれていたけれど、彼がもし結婚相手になったとしたら……。そこまで考えて、わたしは考えることを止めた。いくら考えてみようと、彼とわたしがそうなる可能性は限りなく低い。確か、大張の父親はそれなりに高い官位についていたはずだ。小張が大張の従兄弟あたりとすれば、瑕疵持ちとなったわたしとの縁組には、釣り合いが取れない。相手にも何らかの瑕疵がある人となら、なんとか縁組も整うというところだろう。
一度頭に浮かんだ妄想は、なかなか消え去ってはくれなかった。わたしにとっては衝撃的だった、辻占の阿蘭の破談の予言のあとに初めて会った異性が小張だったからだろうか。なぜか、彼とは何かの縁があるような気がしてならなかった。それは小娘の幻想に過ぎないことはよく理解している。彼のように見目が整っているなら、いくらでも瑕疵持ちでない可愛い女の子を恋人に選べるだろう。親の意向で幼い頃に婚姻させられている娘が多いとはいえ、そういう娘ばかりでもないのだ。自分とは縁がないのだ、と。そう思ってみても、赤縄が繋がってくれていることを望む心が、わたしの中にあった。
これが「恋」なのかどうかは、わたしには良く判らなかったけれど。
泉は黄泉つまり冥府、あの世ということで、泉下の客(人)というのは亡くなった人という程度の意味です。
月下冰人は平たく言えば仲人ですね。
赤い糸といえばまだ可愛いですが、元の話が足の指でしかも赤い縄というのは中々衝撃的だと思います。
中国の古典にこの月下冰人が登場する話がありますが、人の世の縁を知る老人という感じですね。
たとえ相手が仇敵であろうとなんだろうと、出会って結ばれるというなかなか壮絶な「縁」です。
この時代の平均余命は、四十年から五十年程度で、それ以上だと長生きという認識になります。寝たきりになるよりも医療の未発達でその長さを生きられないという状態ですね。
そしてこの頃の美少年とその母。
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