閑話*長い夜の終わりに
小張白玉君の周辺のお話です。
少年が生まれ落ちたすぐ後に、家族は皆居なくなった。
本当は兄と姉が居たらしい。それはある程度成長してから教えられた。家族と同じ道を辿る可能性も低くはなかったけれど、生まれたばかりの幼子を庇ってくれる人が居て、少年は九死に一生を得た。生き長らえたことが少年にとって本当に幸福だったのか、それは判断が難しい。家族が居ないということは孤児になった訳で、孤児を養ってくれるような施設などある筈もなかったし、親族に引き取られるということも難しかった。人ひとりが育つのにかかる費用は、少なくはない。生まれたばかりの少年が己を養うことが出来るはずもなく、そのまま行くと少年が自分の命を拾い続けることは難しかった。
ただ、天涯孤独ではあったが、祖父に所縁のある人が生活費や学費を工面してくれ、何とか教育を受けることが出来た。それはきっと破格のことだろう。秦の帝が国の統一に伴って、それまで各国でばらばらだった書体の統一を行って、百年以上の時が流れているが、まだまだ学問は上流階級だけの専有なのだ。それを与えられたという事実は、少年個人にとって、小さなことではない。それは理解できる。
ただ、それでも時折、普通の家族というものに憧れる時がある。
多くは望まない。金銭に余裕がなかったとしても、教育を受けられなかったとしても、それは努力次第で多分どうにかなる。
どうにもならないのは、他愛もない話を聞いてくれる、そして少年をありのまま受け入れてくれる家族だ。
尤も、少年の身に流れる血がそれを叶えてくれたかどうかは謎なのだけれど。
血の繋がりが必ずしも重要とは、少年は思っては居なかった。費用を工面してくれた人の子供は学友として少年に接してくれているし、敬意を払いつつも一家できちんと少年を躾けてくれていた。そこに彼等の愛情のようなものがないとは思ってはいない。けれど、ふとした折に少年だけが異質であると気付かされることに、一抹の淋しさのようなものを味わうのは、いかんともし難い。
ふっ、と一人の少女の笑顔が胸を掠めた。春に出会った善良な少女である。今は秋の気配が深く漂うようになってきた。日の長さは春と然程変わらないくらいだろうか。少しずつ肌寒さを憶えるが、それは肌が夏の暑さに慣れてしまったためだろう。
この長安の都に住む娘の殆どは赤子の頃に婚姻を済ませている。当代の帝の父親であった先の帝が、非常に色を好む「英雄」であったことが今の状況を作り出している。少年がごく小さいうちに先の帝は冥府へと旅立ったが、その生涯の行動を見るに、英雄というよりは政治家、そして激情家というよりは気分屋だったのだろうと少年は推測してはいる。何れにしてももう既に亡くなった人だ。現状に愚痴も言えない事態ではあるが、そもそも血筋ばかり良くても孤児という傷を持つ身では、縁組など期待できるはずもない。
ふとした時に見せる、何の含みもない、花が綻ぶようなあの柔らかい笑顔が、もう二度と見られないことを、少年はよく理解していた。歳の近い子供で身近にいたのは学友であった少年くらいで、女性といえば母親と同じくらいのものばかりだったし、それまで自分の周りにいた女性達とはまるで違う、善良さが溢れたような少女にはいつも驚かされていた。店に突っ込んで来た男が釵を壊しばら撒いたまま逃げ去ろうとするのを咄嗟に捕まえようとしていたのには吃驚するしかなかったが、拙い釵がいくつか壊れていることを惜しみ、少女には何の咎もないのにも関わらず手伝いを申し出てくれた時には、どういう訳か少年の頭に血が上ったようだった。もう少し、少女を見ていたいと思ったのは、きっと少年が初めて出会う「普通」を凝縮したような人だったからだろう。
性格の善良さは、表情にも良く出ていた。清潔感のある整った容姿、それに加えて、穏やかで嫋やかな情熱を一滴ばかり垂らしたような艶やかさがあった。歳は十二、三程だろう。その年齢の少女特有の、刻一刻と美しさが花開いていくような変化を、片時も目を離さずに見つめていたいと思えた。恐らく来年か再来年には祝言を挙げて、本当に「人妻」になるのだろう。その姿を少年が見る日は、恐らく、ない。
けれど、初めて淡い執着のような何かを憶えた少女に、幸あれと願うことは許されるだろうか。心の奥底に、ひっそりとそれを閉まっている限りは。
少女に渡すことは出来ないだろう釵をそっと撫でる。あの時渡したのは、ありふれた木で、商品にしたものよりもずっと丁寧に真剣に彫っていたものだった。少女が欲しがっていた、小さいけれど螺鈿のついた釵を、少年は個人として蓄えたほぼ全財産を使って購った。渡せる筈もない釵を持つ手は、どこかやさしい。
「許のお嬢さんは、知ってたかな」
嫁になる女性を婿の親族が見て、気に入ると用意していた釵を嫁の髪に挿す、という風習がある。挿すことは憚られたので流石に手渡しするに留めたが。
「いつか、許のお嬢さんみたいな女の子を、お嫁に貰えたらいいな」
ひっそりと呟いた言葉は、秋の風に紛れて空へ消えた。
季節が半年分ほど飛びました。次も少し先の季節になります。
次回投稿予定は五日後くらい。今ちまちま書いてるんですが筆の進みがとても悪くて凹んでいたらこちらの閑話が降ってきたのでこれ幸いと投稿しております。
お嫁さんの髪に釵を挿す風習は漫画家滝口琳々氏の作品「北宋風雲伝」に登場します。
実際この風習が他の時代他の地域にもあったのか、調べてみたのですが、見つかりませんでした。
そして裏側では……。
https://ncode.syosetu.com/n0449fj/5/
ついでに、先日作品管理をしていて複数の同系列作品をまとめることが出来るらしいと気付きまして、試みました。
今後幾つか増える予定もありますので、出来る限りこまめに更新していきたいと思います。