少年は釵を与う
今日は大張が帰ってくる日だ。
予定がずれにずれ込んでいたけれど、昨日の昼過ぎに店に届いた書簡によると、漸く崖崩れの後始末がほぼ終わったらしい。午前中には長安の都と寸断されていた道が開通するようになるだろうということで、夕方頃の到着だと書かれていたようだ。
そうなると、当然だけれどわたしのささやかなお手伝いも不要になる。自由な時間があることは嬉しいけれど、こちらで店番程度のお手伝いをすることは楽しかったし、得難い経験でもあった。来年か再来年には正式な祝言の日取りも決まるだろうし、そうなればおいそれと出歩くことも出来なくなるだろう。いや、既婚者である娘がふらふら歩くのは明らかにおかしいと言われるだろうけれど。
それでも沈んだ顔をしていれば周りに心配を掛けてしまう。ほんの少し、まだわたしに残されている時間を楽しんでいたい。
「許のお嬢さん、そろそろ終わりだし店じまいしてお茶でも如何ですか」
珍しく小張がそう言ったのは、労うためだろうか。わたしが今日でお終いということで、気を遣ってくれたのかもしれない。
「お茶……、そんな珍しいものを頂くわけには」
「商人としては、お客様にお勧めする前に、どういうものかを把握しておかねばならないのです。けれど、男だけの意見では、どうも面白味がない。女性ならではの意見を期待していますので、味わった感想を頂けませんか?」
「……お仕事熱心なんですね」
そう言ってみると、にやり、とほんのり笑って。
「という建前で綺麗なお嬢さんとお話をする大義名分を」
「綺麗なお嬢さん?」
そんな方がいらっしゃっただろうかと辺りを見回してみる。先程までいらしていたお客さんの中には、そういう方もちらほら見かけていたような気がするけれど。
「……許のお嬢さんはご自分が綺麗なお嬢さんだってことをもう少し自覚された方がいいですよ。本当に危なっかしい」
どう答えたら良いものか、思わず視線を彷徨わせる。
「ありがとうございます?」
「いえ、そこははっきりと」
「……ありがとうございます」
そう言ってみると肯きが返ってきた。その笑顔がとてもやさしいものだった。とくん、と心の臓が大きな音を立てる。
「薬としての効果についてはまだ判ってはいませんが、少なくともこういう飲み物というのは新しいですし、出来れば習慣に取り入れられるようにしたいですね」
「習慣…ですか?」
確か、太祖さまの頃辺りから飲まれるようになったものだと聞いている。
「そう、食事の後とか、お客を招いた時とか。酒を振る舞う訳にはいかない場というものもあるでしょう。だから、そういう習慣を根付かせることが出来れば、販路をもっと拡大出来ると思うのです」
小張は本当に根っからの商人さんなのだろう。そんな壮大なことを思いつくなんて。
「ただ、実際喫してみると心が穏やかになる気が致しますね。薬とはまた違う効果、と申しましょうか」
「そうですね。少し安堵するような気が致します」
暫く沈黙が落ちたのは、何かを考えているふうだったせいだろうか。
「許のお嬢さんは、もう外出出来なくなってしまうのでしょうね」
残念だと思ってくれているのかも知れない。そうであれば少し嬉しい気もするけれど、だからと言って何かが変わる筈もない。それでも、惜しまれているようなその気配に、ほんのり喜びを憶えてもいいだろうか。多くは望まないけれど。
「そうですね。もうそろそろ外出は出来なくなります。……もう子供ではいられなくなります」
「……残念です」
そう呟く声が、どこかしみじみとしたものを帯びていて、思わずそっと小張を見ると。
「これを」
そっと差し出された。男性にしては細く長い、そして骨ばった手の上に、木の釵がある。売り物用に彫っていたものよりも、幾分手の込んだものに見える。
「これは……?」
「お手伝いして下さっていたお礼に。大したものではありませんが、普段お使い頂けると思いまして。いや、下心はありませんが、心は込めて作りました。もし、許のお嬢さんがお厭でなければ、使って下さい」
微笑んでいる表情は、どこか物寂しさも感じられたけれど、それを掘り下げて話すことも出来ない。
「……頂いてもいいのでしょうか?」
そう返すのが精一杯だったのは、私が許のお嬢さんと呼ばれていても未婚ではないからだけれど、小張は違うふうに受け取ったらしい。
「是非」
しっかり肯いてわたしの掌に載せる。軽く触れた指が、少し熱く感じられたのは、多分気候のせいだと思う。春という季節に相応しい、どこかほのぼのとした温かさのある日だったから。
もう会うことは恐らくないだろうけれど、ただ、好意を持っていることを仄めかしてくれたのは、わたしに対する思いやりのようなものだろうか。このくらいなら、という線を小張なりに考えてくれたのだということは、言われるまでもなくよく理解出来た。
「ありがとうございます。……大事に使わせて頂きますね」
そういえば阿蘭は釵を小張に、と言っていたけれど、寧ろそれを頼んでしまっては、いけないような気がする。気を持たせるようなことをすべきではないだろう。……応えることが出来ない立場なら。
「……小蘭には釵は用意出来なかった、と話しておくつもりです」
どこか淋しげな微笑みは、とても綺麗だった。こういう風に落ち着いて男性の顔を見るようなことはもうないだろう。そうすることが出来た最後の機会の相手が小張だったというのは、良かったかも知れない。この年頃の男性はあっという間にぐんぐん背が伸びて、大人になるものだと聞いている。多分一年二年もすればもっと男らしくがっしりした姿になるのだろう。けれど、間違ってもわたしの実家の周りにいるような、髭面のむさくるしい男性にはならないことが予想出来る。年若く見目麗しい殿方と今後ゆっくりすることは難しいだろう。そう思うと、何か慰められたような気がした。
「会えた時にはわたしが宜しく言っていたとお伝え下さい」
湯気の向こうで、小張がもう一度そっと微笑んでいた。
まったり回です。
太祖というのは、前漢の劉邦の廟号です。
基本として、王朝の初代二代目あたりについては、中国では廟号で呼んでいたという記述を見かけましたので、本文中、廟号で呼んでみました。
その劉邦の頃(紀元前二世紀)にはお茶自体はあったようです。
百年以上が経過しているので、ある程度は普及していると期待して文中に入れてみました。
ただし、「茶」という言葉は唐の時代頃に出来たようで、違う漢字が幾つか使われていました。
こちらでは、混乱を防ぐため、「茶」の言葉を使います。
なお、この時代は紙がまだ発明されていませんので、筆記具として、布の他に、木片などが使われています。木簡竹簡などですね。
そして告白紛いの裏側では。
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