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作者: アサガオ成長日記
掲載日:2018/12/24

挿絵(By みてみん)

魚を思うと書いて、エラと読む。



部屋は散らかっている。だが、片付ける余裕なんて、私には無い。

私には使命があるのだ。


そして私は、散らかった部屋の中に置いた洗面器に頭を突っ込んだ。

洗面器に入れた水が冷たい。

「ウグッ」

息も苦しい。


おかしい。何かが間違っている。

水の中で息苦しくなるなんて、間違っている。


何かが間違っているが、仕方ない。もう時間である。

会社へ出掛ける支度をした。

私にとっては、時間の無駄使いである。

だがやはり、出掛けよう。


黙々と仕事を片付けながら、私ははっきりと感じた。

重力を感じる。

重たい。空気が重い。


昼休み、私はいつものお店へ入った。

いつものようにコップに水を汲む。


コップに入った水が目の前にある。

当たり前のことではあるが、水がある。

もちろん、頭を突っ込む。

いや、口か?鼻か?


「グフッゴホッ」

コップの水が溢れてしまった。

何故だろう。


周囲から笑い声が聞こえた気がしたが、そんなことは気にならない。


会社帰りに近所のクリーニング屋へ来た。

数日に一回は立ち寄っている。

ワイシャツのクリーニングだ。


店内では、たくさんの洗濯物が大きな機械の中で、ぐるんぐるんと回っている。

ガッシャン、ヴーン、ガッシャン。


回り続ける洗濯物は、まるで自分の生活そのものに見えた。

鰓呼吸の練習をする。

会社へ行く。

クリーニング屋へ立ち寄る。


いつまで回り続けても、鰓呼吸を獲得出来ないのではないか。

回り続ける洗濯物は、私にそんな不安を感じさせた。


「いつもありがとうございます」

とても穏やかな声が聞こえた。

クリーニング屋の店員、酒巻さんだ。

彼女はネームプレートをつけていた。

だから酒巻さんと覚えている。

ただそれだけである。


酒巻さんの穏やかな声と、そして彼女の笑顔。

私は一瞬、鰓呼吸のことを全て忘れそうになった。

不覚だ。


不甲斐ない自分に嫌悪しながら、家路につく。

床の洗面器を通り過ぎ、湯船まで歩く。

頭から、そして身体を思いっきり突っ込んだ。


「ウグフォッ」

頭の中心部に、酒巻さんの笑顔が突然現れる。

だめだ、息苦しい。

彼女の笑顔は消えない。


彼女の声まで頭に響いてきた。

集中出来ない。

落ち着かない。

これでは鰓呼吸の練習にならないではないか。


いやまさか、そんなはずは。

これが恋というものなのか?


しばらくの間、クリーニング屋へ立ち寄るのを避けた。

ワイシャツが汚くても、鰓呼吸の練習には何ら支障などない。


支障は無いはずだった。

だが水に浸かると、酒巻さんの声が頭に響く。

酒巻さんの笑顔が、視界を覆う。


きっと、鰓呼吸を獲得する段階に達しているのだ。

その副作用のようなものなのだろう。

そう思うことにした。


久々の休日。

自宅からは少し遠い河原まで来た。

鰓呼吸をもうすぐ獲得する段階に達しているはずなのだ。

そのための遠出である。


流れる水の中へそっと頭を突っ込んでみる。

水が冷たい。

そのまま身体を水の流れるままに預ける。


「プハー、プハー」

流れに全てを任せる心地よさ。


その心地よさの中で、何かが身体を駆け巡った。

そして、唐突に酒巻さんの笑顔が浮かんだ。


そうか!これだ!

私は酒巻さんの元へと走った。

陸地を走るなんて、一体いつ以来だろう。


汚れたワイシャツから水が滴る。

身体を過ぎる空気はとても冷たい。


「酒巻さん、私と一緒に海へ出ませんか?」

酒巻さんは急に訪れた私を見て、少し驚いた様子だ。

しかしすぐに、いつもの穏やかな笑顔になり、

「私には、クリーニングがありますから」

と静かに言った。


水の滴る髪の毛は冷たい。

水の滴るワイシャツはとても冷たい。


「洗っても洗っても、終わらないんです」

酒巻さんは笑顔でそう言った。


家路につきながら、私は思う。

洗っても洗っても終わらないクリーニング。

魚を思うと書いてエラと読む。


酒巻さんへの想いは、恋だったのかもしれない。

しかし酒巻さんはもっと大切なことを教えてくれた。

彼女は、ぐるんぐるんと回る洗濯物と共に生きているのだ。


では私はどうだ?

魚を想っていたか。

水を想っていたか。

使命などと勘違いしていたのではないか。




海へ出る支度を整えて、クリーニング店を覗く。

ぐるんぐるんと回り続けるクリーニングの機械。

酒巻さんの、てきぱきと洗濯物を片付ける姿。


私に気づいた酒巻さんが、外へと出てきた。

「海へ出るんですね。水の流れに身体も心も全て、委ねて下さいね」


酒巻さんは、クリーニングに全てを委ねている。

私はまだまだだ。

自分が獲得すべきものすら解らないでいる。


でもきっと、海へ出たら鰓呼吸を獲得しよう。

私には、鰓しかないのだから。

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― 新着の感想 ―
[良い点] 私にはクリーニングがありますから。 そう言い切れる何かが自分にはあるかな?と自省してしまいました。人には十人十色の大切なモノがありますよね。小説の2人のように、委ねるモノ、獲得したいモノを…
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