鰓
魚を思うと書いて、エラと読む。
部屋は散らかっている。だが、片付ける余裕なんて、私には無い。
私には使命があるのだ。
そして私は、散らかった部屋の中に置いた洗面器に頭を突っ込んだ。
洗面器に入れた水が冷たい。
「ウグッ」
息も苦しい。
おかしい。何かが間違っている。
水の中で息苦しくなるなんて、間違っている。
何かが間違っているが、仕方ない。もう時間である。
会社へ出掛ける支度をした。
私にとっては、時間の無駄使いである。
だがやはり、出掛けよう。
黙々と仕事を片付けながら、私ははっきりと感じた。
重力を感じる。
重たい。空気が重い。
昼休み、私はいつものお店へ入った。
いつものようにコップに水を汲む。
コップに入った水が目の前にある。
当たり前のことではあるが、水がある。
もちろん、頭を突っ込む。
いや、口か?鼻か?
「グフッゴホッ」
コップの水が溢れてしまった。
何故だろう。
周囲から笑い声が聞こえた気がしたが、そんなことは気にならない。
会社帰りに近所のクリーニング屋へ来た。
数日に一回は立ち寄っている。
ワイシャツのクリーニングだ。
店内では、たくさんの洗濯物が大きな機械の中で、ぐるんぐるんと回っている。
ガッシャン、ヴーン、ガッシャン。
回り続ける洗濯物は、まるで自分の生活そのものに見えた。
鰓呼吸の練習をする。
会社へ行く。
クリーニング屋へ立ち寄る。
いつまで回り続けても、鰓呼吸を獲得出来ないのではないか。
回り続ける洗濯物は、私にそんな不安を感じさせた。
「いつもありがとうございます」
とても穏やかな声が聞こえた。
クリーニング屋の店員、酒巻さんだ。
彼女はネームプレートをつけていた。
だから酒巻さんと覚えている。
ただそれだけである。
酒巻さんの穏やかな声と、そして彼女の笑顔。
私は一瞬、鰓呼吸のことを全て忘れそうになった。
不覚だ。
不甲斐ない自分に嫌悪しながら、家路につく。
床の洗面器を通り過ぎ、湯船まで歩く。
頭から、そして身体を思いっきり突っ込んだ。
「ウグフォッ」
頭の中心部に、酒巻さんの笑顔が突然現れる。
だめだ、息苦しい。
彼女の笑顔は消えない。
彼女の声まで頭に響いてきた。
集中出来ない。
落ち着かない。
これでは鰓呼吸の練習にならないではないか。
いやまさか、そんなはずは。
これが恋というものなのか?
しばらくの間、クリーニング屋へ立ち寄るのを避けた。
ワイシャツが汚くても、鰓呼吸の練習には何ら支障などない。
支障は無いはずだった。
だが水に浸かると、酒巻さんの声が頭に響く。
酒巻さんの笑顔が、視界を覆う。
きっと、鰓呼吸を獲得する段階に達しているのだ。
その副作用のようなものなのだろう。
そう思うことにした。
久々の休日。
自宅からは少し遠い河原まで来た。
鰓呼吸をもうすぐ獲得する段階に達しているはずなのだ。
そのための遠出である。
流れる水の中へそっと頭を突っ込んでみる。
水が冷たい。
そのまま身体を水の流れるままに預ける。
「プハー、プハー」
流れに全てを任せる心地よさ。
その心地よさの中で、何かが身体を駆け巡った。
そして、唐突に酒巻さんの笑顔が浮かんだ。
そうか!これだ!
私は酒巻さんの元へと走った。
陸地を走るなんて、一体いつ以来だろう。
汚れたワイシャツから水が滴る。
身体を過ぎる空気はとても冷たい。
「酒巻さん、私と一緒に海へ出ませんか?」
酒巻さんは急に訪れた私を見て、少し驚いた様子だ。
しかしすぐに、いつもの穏やかな笑顔になり、
「私には、クリーニングがありますから」
と静かに言った。
水の滴る髪の毛は冷たい。
水の滴るワイシャツはとても冷たい。
「洗っても洗っても、終わらないんです」
酒巻さんは笑顔でそう言った。
家路につきながら、私は思う。
洗っても洗っても終わらないクリーニング。
魚を思うと書いてエラと読む。
酒巻さんへの想いは、恋だったのかもしれない。
しかし酒巻さんはもっと大切なことを教えてくれた。
彼女は、ぐるんぐるんと回る洗濯物と共に生きているのだ。
では私はどうだ?
魚を想っていたか。
水を想っていたか。
使命などと勘違いしていたのではないか。
海へ出る支度を整えて、クリーニング店を覗く。
ぐるんぐるんと回り続けるクリーニングの機械。
酒巻さんの、てきぱきと洗濯物を片付ける姿。
私に気づいた酒巻さんが、外へと出てきた。
「海へ出るんですね。水の流れに身体も心も全て、委ねて下さいね」
酒巻さんは、クリーニングに全てを委ねている。
私はまだまだだ。
自分が獲得すべきものすら解らないでいる。
でもきっと、海へ出たら鰓呼吸を獲得しよう。
私には、鰓しかないのだから。