072 パンと小麦と小さな悪女
「ハロルドさん、そろそろ行きましょう」
「おう。着替えるから、ちょっと風呂かしてくれ」
領主の館の裏庭で、熱心に剣を振っていたハロルドさんに声をかける。
こないだのリーナvsベイルマンの一戦を見てから、ハロルドさんは今までよりも訓練を真剣にやっているようだ。なにか触発されるものがあったのかもな。
今日、ノエリアはサヴィールと一緒に診療所に行っている。
ファルコが、ノエリアがテントや家をまわっているのを見て、大変だから患者の方が彼女の所へ行くようにと、住居の後、真っ先に建てたのが診療所だった。
俺が社会保障エリアと名付けた区画にあるそれは、当面は低価格で怪我や病気の治療が受けられる施設として、教会と共同で運営されている。
教会が運営に関わることを嫌う住民もいたが、聖魔法の使い手は当面ノエリアとサヴィールの二人しかいない(リーナも使えるけどね)わけだし、サヴィールはもともと亜人を差別していなかったから、ほどなく馴染んだようだった。
今では交代、または一緒に、特定の時間に診療所を開けているようだ。
なお、緊急の時はサヴィールが呼ばれることが多いらしい。領主の館よりも教会の方が行きやすいんだろう。そうやって、教会と住民の関係も、徐々に正常化していっている。
料金が安いので、実は冒険者に大人気になってしまったのが問題と言えば問題だが、コートロゼの住人ではない冒険者は少し価格を高く設定してバランスをとっているらしい。
リーナはザンジバラード警備保障へ。
なにか最近「訓練のお願い」が増えたらしい。しかし、もしアレを手本にしてるとしたら、ザンジバラードの連中はマゾい人ばかりなのかな……なんて怖い考えになってしまったが、本人も楽しそうだし別にいいかと自由にさせている。
さすがに昼間の街中で、ハロルドさんの手に負えない事件は起きないだろうし。
ハロルドさんと一緒だと、クロも付いてくることが多くなった。しかも小サイズだ。
いつも馬車を引いてものを運んでいる自分が、抱き上げられて運ばれるのが、変な気分で楽しいらしい。相変わらず住民には親子と間違われることが多いが、もうあきらめたようだ。
ファルコと今後の街作りの打ち合わせに、南街区へ入ったところで、突然男が飛び出してきた。
「代官様、お願いがあります!」
おお、なんだ? 直訴か? 直訴なのか?
「あんたは、確か――」
ハロルドさんは、剣に手をかけたまま、男をしげしげと見ていた。
「お知り合いですか?」
その男は、ノエリアとテント村をまわっていたとき、怪我を治した男だそうで、狐族らしいライラという奥さんと、可愛らしいミーナとか言う子供がいたとか。
「それで、どんなお願いですか?」
「パンの、パンの作り方を教えてください!」
「は?」
話を聞いてみると、この男(なんとトーストという名前らしい)の実家はパン屋で、自分もパンが焼けるので、南街区の新開発で心機一転パン屋を始めようと思ったそうだ。うん、南街区にパン屋さんはまだないので、是非頑張って欲しいね。
ところが試しに普通のパンを焼いてみたら、娘のミーナに、代官様のパン美味しかったねと懐かしげに言われたんだそうだ。
む、それは結構きついな……てか、あれは1CWでドライイーストだからなぁ、バウンドから持ってきてるパンと比べても勝負にならないよ。人は贅沢に慣れるものなんだなぁ……
これは相談に乗らなきゃ仕方がないってやつか。しかし、どうするかな。
「分かりました。しかし、これから少し用事があります。後でそちらの店によりますので、場所を教えておいてください」
◇ ---------------- ◇
ファルコに作らせた建設会社っぽい組織は、今のところうまくいっている。ただ案件のほぼ100%が公共事業だから、それが終わったらどうするのかが問題なんだけどな。
打ち合わせ自体は、なにを優先して作るのかと、必要な物資は何かが中心なので、それほど時間が掛かることもない。
とりあえず、住民の把握と住民サービスを行うための役所を、シセロと相談して作るように指示したくらいで、後は住民に近い彼らの方が、住民に必要な建物のことが分かっているはずだから、任せちゃった方が早いし良いだろう。
そうして、お昼をすませた後、トーストの所へ向かった。
「こんにちはー」
と言うと、奧から綺麗な狐族の女性が出てきた。この人がライラさんかな。
「あ、代官様、ようこそいらっしゃいました」
「トーストさんはいらっしゃいますか?」
「はい、すぐ来ると思いますので、少々お待ち下さい」
ライラさんの足元で、ちらちらこちらを伺っている可愛い子がいる。あれがミーナちゃんかな。クロの小サイズ版より少しだけ年上な感じだ。
「こんにちは」
というと、てくてくと前に出てきて
「だいかんさま。おいしいごはんを、ありがとうございました。あとおとうさんをなおしてくれて、ありがとうございました」
とぺこりとお辞儀をした。
「どういたしまして。今は大丈夫?」
「うん、じゃなかった。はい」
「あ、代官様。どうもお待たせしました」
といってトーストさんが出てきた。
ハロルドさんが、クロをおろして、カール様は仕事だから、終わるまで一緒に遊んでろ、と言っている。
クロは、んっとかいいながら、ミーナと一緒に何か話しているようだ。
「それであのパンの作り方ですが……」
と早速切り出してきた。
俺はハロルドさんに、カリフさんの所に行って、アル=デラミスの小麦を産地別に少し買ってきて欲しいとお使いを頼んでから、トーストさんに答えた。
「あれはすぐには作れません」
そこから俺はトーストさんに、発酵パンと非発酵パンについて詳しく説明した。
「つまり、我々が普通に焼いているパンは、非発酵パンで、代官様が出されたパンは発酵パンだということですか」
「そうです。発酵パンを作るためには、酵母というものが必要になるのですが、これをつくるのに7日から10日くらいかかります。さらにそこからパンの種を作るのに数日。やってみたいならお教えしますが、うまくいかない可能性の方が高いです」
ここは南で、これからは気温も上がるしな。腐らせたりカビさせたりする可能性が高いだろう。
「それでも教えてください。納得するまでやってみたいんです」
とトーストさんが言った。意外と熱い人だな。
それから、1時間くらいかけて、果物を使った酵母液の作り方や、酵母液が完成したら、それで作るパン種の作り方、そしてパン種ができたら、それを利用したパンの焼き方などを説明した。
「大変興味深いお話ですな」
トーストさんとしていたパンの話が一段落すると、隣にカリフさんが立っていた。
「カリフさん? どうしたんです?」
「いえね、ハロルドさんが小麦を買いに来てくださったんですが、産地別に欲しいと仰るじゃないですか。これはまたカール様が何かを始めたんだなと思いまして」
それでわざわざバウンドから扉を通ってやってきて、一緒についてきたそうだ。凄く忙しいんじゃなかったっけ、この人は。
「それで、残念なのですが――」
カリフさんの話によると、挽いてある小麦は、生産地を区別せずに挽かれるため、各地の小麦が混じっているそうだ。
小麦自体の扱いは領主によって異なるそうだ。
全量を税を引いた金額で買い取る領主や、何割かを税として物納させる領主などがいるそうだが、領主の手元にあろうと農民の手にあろうと、最後は商人が買い取って貨幣に変わる。
その際、商人は産地を分けたりしないでそのまま倉庫に入れてしまうので、挽く前の小麦でも領地単位でしか分類できていないだろうとのこと。
「それで、領地別程度の分類になってしまいますが、少しだけ急遽挽かせてみたものが、こちらになります」
といくつかの袋を取り出した。さすがカリフさん。準備がいい。
「それで、それをどうなさるので?」
「発酵パンを作るには、小麦粉の中に含まれるグルテンという物質の量が重要なんですよ」
俺はそれぞれを天秤で同量とりだして、水と混ぜて団子を作った。基準にするため、ハイムの中にあった薄力粉と強力粉も同量取り出して団子にした。
それを水の中で洗いデンプンを溶かしていくと、最後にねちょーっとした物体が残る。これがグルテンだ。
トーストさんやハロルドさんをこき使って、他の産地の団子も洗って貰うと、それぞれの領地でグルテン量が違うことがはっきりした。
「こちらの小さいものは、王国東部にあるソリュース川流域のものですね」
とカリフさん。
「そしてこちらの一番大きなものは、デュランダル上流のシールサの北側のものです。この普通のものは、カール様のご実家のものですよ」
現代のものに比べて、全体的にグルテンは少なめだが、シールサの北側のものは充分強力粉と言える大きさだ。ソリュース側流域は完全に薄力粉、うちの領地は、中力粉よりやや薄力粉よりだな。
「カリフさん。デュランダル上流のその地方で、小麦の花が咲いてから収穫までの期間、できるだけ雨が少ない地方のものを買い占めましょう」
「ふっふっふ、そうこなくては。ところで、どうしてその地方なんです?」
「発酵パン、中でも先日我々が作ったような、充分に膨らんだパンを作るときは、さっきのグルテンを沢山含んだ小麦の方がふっくらと膨らむのです」
「ふーむ」
「そして小麦の中のグルテンは、開花から収穫までの間に雨が少ない方が多くなる傾向があるのです」
「わかりました。すぐに拠点建築の準備と、来期の取引についてまとめてみます。今期もできるだけ購入してみましょう」
「あ、それと」
今実験でグルテンが非常に少なかった地域のものを「薄力粉」、多かった地域のものを「強力粉」、残りを「中力粉」と分類しておくといいですよとアドバイスしておいた。
「それはまたなぜです?」
「それぞれに、向いている用途が違うのです」
「同じ小麦にもパン向いていたり、粥に向いていたりする小麦がある言うことですか?」
「そうです」
「ところで、その発酵パンとやらは、このあいだカール様が配られていた、あのパンですよね?」
「ええ。あれだけではありませんが、あのように膨らんだ柔らかいパンになります。色の白さは使う小麦の質次第ですね」
「それで、そのパンがここでも作れるようになると?」
「それは――」
「もちろんです!」
とトーストさんが割って入った。
それを聞いてにっこり笑ったカリフさんは、よくわかりましたと言うと、早速行動を開始した。彼が帰る直前に、後でその強力粉を持ってきて貰うようにお願いしておいた。
「なあなあ、カール様。あれは、ここで大量に作らせて王都あたりへ持って行こうって顔じゃねーか?」
「ですよねぇ」
うん、俺もそう思う。
「さて、これで発酵パンの準備はできましたが、せっかくですから、美味しい無発酵パンを作ってみましょうか」
そういって俺はミートパイとアップルパイを作り始めた。
◇ ---------------- ◇
「なんですこれは? パンなんですか? お菓子なんですか? それとも……ううむ。なんといえばいいんだ」
トーストさんがミートパイを試食しながら混乱している。
「おいしー!」
とミーナ。焼き上がった頃、クロが食べたそうにミーナと一緒に近づいてきたのだ。さすがクロ。鼻がきく。
「どうだ、おいしいか? クロ?」
「ん」
「カール様、こいつは食い応えがあるなぁ」
「これは、変わり種パンとでも言いますか、純粋なパンではありませんが、パンと同じ釜で焼けるので一緒に作れる、言ってみればお総菜のパン、総菜パンですね。パイといいます」
「総菜パン……パイ……」
トーストさんがまじめな顔で考え込んでいる。
「こっちはリーゴの実を使ったパイで、どちらかというとお菓子に近いものです」
リーゴというのは、要するにりんごだ。ブドといいリーゴといい、うまくできてるな。
「うわっこっちも甘くておいしー!」
とミーナ。
うん、ちょっと砂糖を入れちゃったからね。シナモンとバニラエッセンスを入れる勇気はなかったけどね。
「発酵パンも、主食としてとても優秀ですが、こういったパイなども、食べ物としてはなかなかいいでしょう?」
「代官様!」
とつぜんトーストさんが叫んだ。
「こ、これ、うちで作って売りに出しても構いませんか?!」
「え、ええ、まあ、どうぞ。お肉の入ってるのがミートパイで、リーゴの入ってる方が、リーゴパイです」
「他にも色々入れて工夫してみるといいですよ」
とけしかけておいた。
◇ ---------------- ◇
リーゴパイをかじりながら、すっかり仲良くなったらしいミーナとクロがこそこそと話をしている。
「あれお父さん?」
ミーナがハロルドさんを指しながらクロに聞いている。
ふるふるとクロが首を振る。
「えー、じゃ彼氏?」
「彼氏?」
「好きな人のことだよ」
んーと考えて
「ハロルド、ご飯くれるから、好き」
「うわー」
「おいおい、お前ら、なんて話をしてるんだよ」
「あ、ハロルドのおじちゃん、おとめの話を聞いてちゃだめだよ」
「おじちゃんってな……クロは俺のことが好きなんだって?」
クロは、んーとしばらく考えて、とてとてと歩いて俺の所まで来ると、ご主人様の方が美味しい物をくれるから好きと言って、ぴとっと抱きついてきた。
「くー、旨いものに負けた……」
いやなに悔しがってんの。てか、クロ、それ悪女っぽいよ。