夕暮れと恋心
世界は恋で満ちている。と僕は考える。
単に恋と言っても、それは個人によって千差万別。この広い世界には、ありとあらゆる形の恋が存在する。
たとえば、今、目の前に座っている大学生らしき男女のカップルは、互いに恋をしているし、赤いイヤホンを耳に着けた、隣に立つ中学生くらいの少女は、音漏れして聞こえてくる、アイドルグループの音楽に恋していると言える。またその隣で、熱心に片手に持った小説を読みふける、スーツ姿の中年の男性は、その小説に恋をしていると言えるし、車窓から見える夕焼けの景色に見とれている、吊革につかまった人々は、その景色に恋をしていると言えるだろう。
極論を語れば、とある科学者は科学に恋をして、文学者は文学に恋をし、宇宙飛行士は宇宙に恋をしている。
恋とは愛の糧であり、またそれは人を彩り、世界を彩る。今この世界を、人間社会を構築しているのは、恋であると言っても過言ではない。
僕は、電車に揺られながらそう考える。
大きく西に傾いた陽の光は、車内を赤く染めていた。白い吊革に右腕を託し、小気味良い振動とともに、僕の胸は大きく波を打っていた。それは自分の力ではどうしようもない、いわば無意識的なものであったが、僕はその正体が何なのかをよく知っていた。
そう、僕もまた同様に、恋をしていたのである。
初めて彼女を見つけたのは、一週間前の、今と同じ、学校からの帰りの電車。その電車は、途中、いつも決まって停まる駅があった。小さな駅であったが、人は多く、いつも大勢の人が電車を出入りする。殆どは黒か灰色のスーツを着たサラリーマン風の男性だった。たまに、制服を着た学生がいたり、スーパーの袋を抱えた主婦がいたりした。
その日いつものように、そんな人ごみの流れを眺めていると、ふと、そこに白いワンピースを着た一人の少女が立ち竦んでいるのを見つけた。夏も終わり、肌寒そうなそのワンピースは若干季節はずれにも思えた。僕が目を引かれたのは、そのためであったのかもしれない。
僕よりも少し年下に見えたその少女の髪は、肩のあたりで短めにそろえられていて、その淡く茶色がかった髪を、夕日の茜が照らし、煌めいていた。
それは僕に、雑草の中、一輪、凛と咲き誇るエーデルワイスを連想させた。
気が付いた時には、僕はもう彼女の虜だった。
彼女が僕の乗る電車に乗ってくることは無かった。しかし、次の日も、また次の日も、彼女は決まって、同じ駅の同じ場所、同じ白いワンピースを着てそこに立ち竦み、夕日に照らされている。そして彼女はいつも、寂しげで、でもどこか愛情の籠った、やさしい眼差しをしていた。僕にはその眼差しが、僕に向けられたものであるように思えた。ただの勘違い。そう頭では考える反面、僕は確実にその不思議な眼差しに引き込まれていった。
僕の頭の中は、日に日に、彼女で埋め尽くされていった。黒板の前で教師が声を張り上げているときも、友人とくだらない話で盛り上がっているときも、家で夕食を食べているときも、僕は常に心のどこかで、夕日に染められた彼女のことを思う。
彼女はいったい何者なのか、どこから来てどこへ行くのか。声はどんなだろうか。性格は、きっと温厚で、やさしい心の持ち主であるに違いない。一度でいいから彼女と話がして見たい。もっと彼女のことを知りたい。もっと彼女の近くに立ちたい。
そんなことを頭の中で巡り巡らしている内に、僕は、一度その駅で電車を降りて、彼女に話しかけてみようと決心する。たった一度だけでいい、この行き場の失くしたどうしようもない気持ちをすべて打ち明けてしまおうと。
学校の授業が終わった後、便所の鏡の前で、できる限りの身なりを整え、いつもと同じダイヤの、いつも彼女が立っている場所に一番近い位置で停まる車両に乗り込む。
そして今、あと十分もしないうちに、その駅に到着する。
目の前の景色、田んぼや池や、その周りに建ち並ぶ三角の屋根の住宅が窓の外を流れ行くにつれて、胸の鼓動はまた徐々に大きくなってゆく。
息が苦しくなってくる。もういっそのこと、このまま駅に着かずに、電車に揺られながらどこか遠くへ行ってしまいたい。もしそれが無理だとしても、今日に限って、彼女がいつもの場所に立っていなければ…。
そんな元も子もないようなことも一瞬頭をよぎりはしたが、そうしている内にも刻一刻と時は刻まれ、電車は走る。
西日はさらに傾き、上の方にある空が深い青色に染まっていくにつれ、正面の車両の窓が、薄っすらと自分の姿を映し出す。
大丈夫。そう自分に言い聞かせる。
ただ彼女に、今の自分の気持ちをありのまま伝えることができればそれで良いのだ。それ以上のことは望んでいないし、期待もしていない。
車内のアナウンスが駅の名を告げ、車輪はゆっくりと速度を落としてゆく。それとともに、不思議と胸の鼓動も平静を取り戻してきた。
車輪がぴたりと止まり、重々しい扉が機械音を立てながら開いた。
相も変わらず、小さな駅のわりに、多くの人々が電車を出入りした。そんな中にもかかわらず、僕の目に最初に飛び込んできたのは、いつもの場所、いつもの姿で佇む、いつもの少女だった。
人ごみを掻き分けて、一歩ずつ彼女に近付いていく。
もう頭では何も考えてはいなかった。僕の足はまるで、催眠術にでも掛けられたかのように、独りでに歩を進めた。
そして、そんな僕の足は、少女の目の前でぴたりと止まる。
近くで見る彼女の髪は一層煌めいて、白い肌は一層赤く夕日に照らされて、黒い瞳は一層深く輝いていた。
いつも、電車の窓から眺めていただけの僕にとって、その光景は、まるで映画やドラマの中に足を踏み入れてしまったかのような錯覚をもたらした。
僕はそんな錯覚を必死に振り払い、今、口を開く。
「あの……」
乾いた、擦れた声。続きが出て来ない。頭の中で必死に言葉を組み立てる。
(僕は、君のことを……)その続きは? 何と言えばいい?
今、少女はどう思っているだろう? 急に見ず知らずの男が目の前に現れて、少女はきっと困惑しているに違いない。
今の今まで、頭の隅の方に押さえつけていたはずの、不必要な雑念が散らばって、それは瞬く間に頭の中を埋め尽くす。
「あの……、ここで、何をしているの?」押し出すようにして発した言葉だった。そんなことを聞いてもどうしようもないことは分かっていた。僕が本当に言いたかったのはもっと別の言葉。
「待っていたのよ」少女が答える。その声は、新品のグラスを指で弾いたときに奏でられる音のように、透き通っていた。
「ああ、電車……」駅のホームで電車を待つのは当然、ごく当たり前のことである。質問を完全に間違えてしまったと悔やむ。
しかし、今更どうにもならない。
「それなら、早く乗らないと…」
「電車を待っていたんじゃないわ」少女は僕の言葉を遮った。
「え…?」
機械音を立てて、背後の扉が閉まる。
車掌の合図とともに、車輪はゆっくりと音を立てて回り、走り出す。周囲の音はすべて騒音に掻き消された。
騒音は徐々に遠くなって、消える。
「あなたを待っていたのよ」
彼女のその言葉に、僕は、喜びも疑問もすべてを飛び越えて、ただ狼狽するのみだった。
「それって、どういう…」
そこまで言いかけて、僕は気付いた。彼女の瞳。寂しげで、でもどこか愛情の籠った、やさしい眼差しは、今も僕へ向けられている。しかし、その黒く深い瞳の奥底に、僕はいない。
「次はあなたの番よ」少女はそう言ってにっこりと微笑み、その場を去り、人ごみの中へと消えていった。
「ちょっと待って…」僕は彼女を引き留めようとした。しかし、足が動かない。
足の甲に、目に見えない釘を打ち付けられたかのように、その場から一歩も踏み出すことができなかったのである。それは奇妙、かつ非常に不可思議な現象であったが、僕は何故か焦ることはなかった。
なるほど、そういうことか。
僕は辺りを見渡す。空の茜はもうすっかり夜空の端に追いやられて、藍の中、あちらこちらで星々が瞬いていた。
先程の電車が去った反対の方向から、また騒音が近づいてきて、次の電車がホームにゆっくりと停まった。
また人ごみが流れ出す。僕は辺りを見渡し、車両の中の、長い髪を後ろで束ねたセーラー服姿の一人の女子学生に目を止めた。
よし、あの娘にしよう。
僕は彼女に、寂しげで、でもどこか愛情の籠った、やさしい眼差しを送った。
ああ、道理で、世界が恋で満たされているわけだ。