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ラセッタの動物たち 空をみるルサン

作者: あしか

 空をみるルサン



 私が初めてルサンという老いたオランウータンと出会ったのは、手紙を書くためだった。

 もっともそれは私の手紙ではなくて、あるちいさなうさぎの女の子に頼まれてのことだった。

 というとなにか深い事情があるように聞こえるけれど、ちいさな女の子が友達に簡単な手紙をだす、とただそれだけのことで、私はそのルサンというオランウータンに一度会いたいと思っていたから、そのついでに頼んできてあげることにした。

 おっと、そのまえにひとつ、言っておかなければならないことがある。


 ルサンはここラセッタで、文字を書くことのできる唯一の動物だ。


 だからラセッタの誰かがなにか文字を書こうと思ったなら、必ずこのルサンに代筆してもらわなければならなかった。

 というのはみんな友達に聞いた話だ。

 もちろん文字が書けるというだけで、私がルサンに会いたいと思っていたわけではない。理由はもう一つあった。

 それは、ルサンはただ文字を書けるというだけでなく、小説家でもあるらしいということだ。

 らしいと言ったのは、もちろんこれも友達に聞いた話だからだ。

 その話を聞いたとき、私はルサンの書いた小説を読みたいと思ったけれど、その友達を始めとして私の知り合いは誰もルサンの書いた小説を持っていなかった。

 そして私の知り合いといえば、ラセッタの動物たちのほとんどを意味した。

 そんなわけで、私はルサンに会いにいくことになった。


 私が地図を睨みながら丘をふたつ越えたころ、冷たい風が吹いた。風からはかすかに潮の匂いがした。

 さらにもうひとつ丘を越えたころ、私はそこに木製のロッキングチェアに茶色い毛の塊が乗っかっているのを発見した。

 そしてもちろん、それがルサンだった。

 私はすこし驚いてしまった。だってここからはぐるっと地平線が見渡せたし、見渡すかぎり家なんてどこにもなかったからだ。

 私がすぐそばまで近づいてもルサンは気付いていないかのように、ただ空を見上げていた。本当に気付いていなかったのかもしれない。

 風がルサンの座ったロッキングチェアを重そうに揺らし、風からはいまだかすかに潮の匂いがした。

 私が、こんにちは、と声をかけると、ルサンは思っていたよりも早く返事をしてくれた。

「こんにちは。……私になにか用事かね」とルサンは言った。あたたかい声だった。

「手紙を書いてもらいたいんです、簡単な手紙なんですけど」と私は返事をした。

「もちろんいいとも。でも、手紙を書くのは久しぶりだから少し時間がかかってしまうかもしれない、書いておくからまた明日、もう一度きてくれるかい」とルサンは言い、私はわかりました、と返事をした。私の声は妙に冷たかった。だから私はそう言ったあとに軽く笑顔を作ってそれをごまかした。そうするとルサンは笑ってくれた。もちろんあたたかい笑顔だった。

 私はルサンに手紙の内容を説明したあとに、

「どこに住んでいるんですか、この近くではないようだけど」と言った。するとルサンは、

「ここに住んでいるんだよ」と笑顔のままで言った。「家はね……捨ててしまったよ、ずっとずっと昔にね」

 私は、捨てた? と言おうとしてやめた、どうしてかルサンを傷つけてしまうような気がしたからだ。そしてかわりに、

「そういえば、小説家だっていうのは本当ですか? そうだとしたら、小説を読んでみたいな」と言った。できるだけあたたかい声にしようと頑張ったけれど、あまり意味はなかった。

「小説家……うん、確かに小説家かもしれないね。でも、残念だけど君に小説を読ませてあげることはできない」とルサンは言った。私が不思議そうな顔をしていると、

「どうしてかっていうとだね、書いていないんだ、一言もね」とルサンは続けた。私はなにも言わずに言葉の続きを待った。

「もちろん、書こうとしていないわけではないよ、ただ、考えているんだよ。最初の……言葉をね」私は続きを待った。

「毎日考えてるよ、最初の言葉は一体なんだろう、ってね。ずっと昔から考えてる。私がまだ家に住んでいたころからね。海の近くでね、風が吹くと潮の良い匂いがしたよ。でもね、それを考えるようになってから、捨てるようになった。いろんなものをね。最初に捨てたのはなんだったかな、忘れてしまったよ。本当にいろんなものを捨ててきた。たくさんの本やペットのオウム、家もそうだ、それに海と潮の匂いのする風。昔は妻もいてね、子供も二人いたよ。ふたりとも女の子でね、まだちいさかった。不思議なんだ、大事なものを捨てれば捨てるほどね、見つかる気がしてくるんだよ。最初の、言葉がね。本もオウムも、家も海も潮の匂いのする風も、それに妻も子供も、みんな大好きだった。本当に、大好きだった」ルサンは空を見上げて笑った。もちろんあたたかい笑顔だった。

「ほら、今日はもう遅いよ、早く帰らないと夜になってしまうからね、明日、またおいで。手紙は書いておくからね」とルサンは言った。空を見上げると、太陽は真上にあった。

「それじゃあ、また明日きます」と私が言って軽く手を振ると、ルサンは言った。

「少しだけ、わかったことがあるんだ」私は続きを待った。

「最初の言葉はきっと、世界の始まりと終わりを繋ぐような言葉だ」とルサンは言った。声はかすかに冷たかった。

「またおいで」とルサンは言った。声はあたたかさを取り戻していた。

 そして、私はそこを後にした。


 家に帰ると、私に手紙を頼んだ女の子が私の家の前で待っていた。

「手紙、書いてきてくれた? 」と女の子は言い、

「明日までに書いておいてくれるって、また明日取りにいってくるよ」と私は言った。

「ありがとう」と女の子は言った。元気な声だった。


 次の日、私は約束の通り、手紙をもらいにルサンのもとに向かった。

 しかし、ルサンはもういなかった。

 そこには木製のロッキングチェアの上に、手紙が二枚とペンが一本置かれてあるだけだった。

 一枚の手紙には<約束>、もう一枚の手紙には<言葉>、と書かれていた。

 私は少し悩んでから、<約束>と書かれた手紙をポケットにしまい、<言葉>と書かれた手紙を丁寧に開けた。中には一枚の、3センチくらいのちいさな紙が入っていた。そこにはさらにちいさな文字で、こう書かれていた。


 Hello,good-bye.


 私はロッキングチェアの上のペンを取り、世界の始めから、そして終わりまで。と書いて、その下に一本の線を引き、紙を戻して丁寧に閉じ、ロッキングチェアの上にペンの下にして置いた。

 風は相変わらず重そうにロッキングチェアを揺らし、相変わらずかすかに潮の匂いがした。どこかに海があるのだろうと思ったけれど、見渡す限り海なんてどこにも無かった。


 忘れんぼのルサン

 風が吹いて

 いなくなった


 家に帰るともちろん女の子が私の家の前で待っていて、手紙を渡すと、

「ありがとう! 」と可愛く言った。赤い目が綺麗に光っていた。もうその手紙の返事が手紙としては絶対にこないのだと思うと、ほんの少しだけ涙がでそうになったけれど、もちろん我慢した。


 それから私はたびたびルサンのいた場所に足を運んだ。手紙はいつもそこにあった。遠くからそれを見ていると、なんだかルサンが手紙になってしまったような、不思議な気持ちになった。風からはいつもかすかに潮の匂いがした。

 以前に公開した「ラセッタの動物たち」シリーズの短編が色々なところで好評を頂いたため、新たに新しい短編を書かせて頂きました。

 拙い文章ですが、楽しんで読んで頂ければ、幸いです。

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― 新着の感想 ―
[一言] 初めまして。時が止まったような、ゆっくり流れるような不思議な作風ですね。  ルサンというオラウータンが手紙を書けたり、話せたり何処かで常識な考えがありながら自然と受け入れていく事が出来ました…
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