右足
私の右足は失われている。膝から先がない。だからズボンを履くと片方は風で揺れる。言うまでもなく人間は片足では歩けないので、私は仕方なく松葉杖をついて街を歩いた。手すりに体重を預けながら階段を上がり、バスや電車では優先的に座席を譲ってもらった。人々は私が杖をつく人だと認識すると、まるで特定のプログラムを起動させるように道を開けた。私は群れと群れの境界を歩いた。そしてことあるごとに、目の前の世界が薄い膜で覆われた。
——私は両足を使ってどこかの平原をかけている。足裏で地面を勢いよく蹴り、考えるよりも先に反対の足が前に出る。空には一匹のトンボが飛んでいた。じめっとした草の匂いが鼻にまとわりつく。
そんな世界を、私の半身はさまよっていた。
私の右腕は日に日に太くなっていった。
ありふれた昼下がりのことだ。私は浴室に入り、炭に火をつけた。その数分前にはテレビをぼんやりと見ていた。どこかの街の中華屋の特集だった。テレビから視線を外すと、リポーターの顔はたちまちに霧散した。乾いた煙に包まれながら、なぜ自分は死ななくてはならないのか不思議に思った。ぱちぱちと炭のはぜる音を聞いて、幼いときに食べていた駄菓子を思い出した。駄菓子は舌の上で転がすと活発に弾けた。私は壁に背中を預けながら腰をおろし、足を前に伸ばした。左右非対称の足。足とは名ばかりで、むしろ残った左足が異物にさえ思えてくる。
私は何回もまばたきを重ねた。その末に百パーセント偽りの右足を見た。それは傷もなくなめらかで、けっして溶けない雪のように静かだった。私はおもむろに立ちあがり、服を着たまま冷たいシャワーを浴びた。飛び散った水滴が炭に触れて瞬時に蒸発する。義足を作ろうと思った。
私が義足をつけたとき、担当の義肢装具士さんは言った。「よくできている」と。「でもそれは誰にもわからないじゃないですか」。私がそう言うと、「よくできていますよ」と彼は淡白に答えた。義肢装具士さん手が私の義足に添えられる。すると失われていた足の感覚が一気によみがえり、思わず私は胸に手を押しあてた。もはや代わりのものしか用意できなくても、もともと生まれ持ったものじゃなくても、こうして誰かが真剣に私の右足を見てくれる。そのことを知ったら私の右足はどう思うのだろう。私の右足はなんて返事をしてくれるのだろう。
私は広い平原をかけていた。
空を飛んでいた一匹のトンボが消えた。
唐突に私の頬に一筋の涙がつたった。義肢装具士は床に膝をついたまま私を見上げ、ゆっくりと目を閉じた。そしてわずかに頷いた。まるで雨粒を滴らせるみずみずしい葉ように。
義足をつけて初めて外の香りをかいだ。頭上には大きな雲の塊がいくつも浮かんでいた。世界はあいかわらず独特な音で満たされていた。鳥の羽ばたき、風のささやき、人々の足音。私は松葉杖を片手に持ち、しきりに足元を確認した。それから後ろを振り返り、そこに消えていた足跡をはっきりと見た。足跡はとても遠くから続いていた。




