第9話「バングルの意味」
直後、皇太子の瞳に緊張が走り、何かに怯えるようにティナの手を振り払った。
(……私は一体どうしたというの?)
一国の皇太子相手にとんでもない行動を取ってしまった。
ティナはこれまで一度も、自分から男性に触れたことなどないのだ。とくにあの事件以降、男性恐怖症ではないが常に警戒心を持って対応している。
それが、どうしたことか、皇太子相手にはまるでセンサーが反応しない。というより、八年間ティナの中に眠り続けた感情が、まるで目覚めたかのようだ。
「も、申し訳ありませんっ!」
「いや……」
言葉少ない皇太子の様子に、さらにティナは恐縮の度合いを深める。
これが慣れた女性なら……仮にアンジーのような女子大生であっても、容易に気付いたであろう。皇太子の瞳に走った、欲情を伴う閃光に。
レイ皇太子は二~三度深呼吸すると、照れたような笑顔を浮かべた。
「いや、そうではないのだ。海の青に称されるのは嬉しいが……これでも太平洋に浮かぶ国の王子なんだが」
「あ……」
そうだ。つい、アメリカ東海岸側に住んでるため海といえば“大西洋”を思い浮かべてしまったが、彼にとって、“太平洋”が海なのだ。最早、自分の呆れた間違いに謝罪の言葉すらみつからない。
「ああ、いや……責めているわけではないのだ。私のほうこそ失礼した。――これはお詫びだ」
そう言うと、皇太子は腕のバングルを外し、ティナの右手首にカチッと嵌める。どうやら、サイズは調整可能らしい。ピッタリとまではいかないが、それでも手首から落ちないサイズまで縮まった。
「え? ええっ! あの、でん、でん……」
「ああ、それから、殿下は止めてくれ。私の名前はレイだ。そう呼んでくれ、ティナ」
「そんなっ! プリンスの名前を呼び捨てなんて!」
「なら、二人でいるときだけでもいい」
「そ、そんなこと……それに、こんな大変なものを、私に嵌めていただいては」
右手首のバングルは、そこにあって当然のような落ち着いた輝きを放った。
だが、そんなはずはないのだ。確か“アズル王室の守護石”と言っていた。ティナは大きく首を横に振る。
「いいかい、ティナ、落ち着いて。アズライトは十二の島全てで取れる宝石だ。希少価値のあるものではない。君の給料でも充分に買える金額の品なんだ」
「でも、大切なものじゃないんですか?」
ティナの問いに、わずかだか皇太子は言葉を選んでいるようだ。
「そうだな……大切にしていたのは事実だ。だから、私と同じように大切にしてくれる人に譲りたかった。私の瞳が、これと同じアズル・ブルーだと言ったとき、君の声は嬉しそうだった。私はこれを君に嵌めていて欲しい。受け取ってもらえないか?」
さっきとは逆に、今度は皇太子のほうがティナの手を握り締めていた。
ティナの心臓はダンスを踊っている。加えて、彼女の思考を狂わせる青い瞳で見つめられ……。
「それは……はい。それは、もちろん大切にさせていただきます、が……。あの、でん……いえ、プリンス・レイ。えっと、王妃の件は」
「ミス・クリスティーナ・メイソン。私は、バングル一つで王妃を釣り上げようなどと、不届きなことは考えてはいないよ」
彼は苦笑すると、悪戯っぽくウィンクしたのだった。
~☆~☆~☆~
アズウォルド王国、空の玄関は海上に建設されていた。ティナはその近代的な空港に降り立ち、本島までは王室専用船で渡った。
彼の言うとおり、アズウォルドの海は深い青だ。しかし、レイに「ビーチはもっと美しい」と言われ、ティナは困惑する。
(レイは私をビーチに連れて行くつもりなの?)
常夏の島に来ながら、ティナは水着を持って来てはいない。いや、あっても着るつもりもなかった……つい昨日までは。
ティナはこの国に降り立った直後から、パンツスーツのジャケットが脱ぎたくて堪らなかった。アズウォルドの暑さは、彼女の予想以上である。
皇太子であるレイやお付きの人たちは、さすがにきっちりとスーツを着込んだままだ。しかし、地元の人間や観光客は、皆半袖でラフな格好をしていた。
水着はなくとも、半袖シャツくらいは持ってきている。宿泊先のホテルにチェックインしたら、すぐに着替えようと考えていた。
だが、そんなティナの様子にレイは気付いていたのだ。そして、自分からスッとジャケットを脱ぎ、側近に手渡した。
「久しぶりの帰国だ。君の国に比べると、やはりこのスーツでは暑いな」
ごく自然な動作でカフスボタンを外し、袖を捲り上げる。レイの顔は優しい微笑みを浮かべ、ティナにも上着を脱ぐよう促していた。
だが、レイがジャケットを脱いだ瞬間――周囲に僅かだが緊張が走る。その直後、ティナがブラウス姿になったとき、皇太子補佐官であるサトウの視線はより一層鋭さを増した。彼らは皆、レイの右手首にあるはずのものをティナの手首に見つけ、驚愕の表情を浮かべていたのだ。
しかしこの時、舞い上がったティナの瞳に映るものは、プリンスの笑顔だけであった。