第8話「戦争と平和」
ジョン・F・ケネディー国際空港を飛び立った王室専用機は、約七三〇〇キロ西に位置するアズウォルド王国を目指した。
日本の首都・東京からは約三九〇〇キロで五時間弱。ハワイからなら約二〇〇〇キロで二時間半もあれば、太平洋の真ん中に浮かぶ王国に到着する。
空飛ぶスイートルーム、といったところか。そこは飛んでいることすら忘れるような、快適な空間だ。バカンスなど長く忘れていたティナにとって、妹の「アズウォルドは楽園」という言葉は、わずかな緊張と思いがけない興奮を与えてくれた。
もちろんそれには、皇太子の存在も欠かせなかったが。
ティナは、あれから何度も自分に言い聞かせた。
――いいわねクリスティーナ、あなたは国王の妃に求められてるのよ! 皇太子殿下の妃になれるわけじゃないのよ! と。
その努力が効を奏しているかどうか、今ひとつ自信がない。ティナが搭乗して何度目かのため息を吐いた時、
「随分、緊張しているようだね。少し話そうか?」
不意に皇太子から声を掛けられる。お付きの方たちはドアの向こうで待機していて、五人は座れそうなソファに、ティナはひとりで座っていた。
彼はひとり掛けの、おそらくは専用の椅子に腰を下ろしている。
「あ、すみません。その……そういう訳じゃないんです。そうじゃなくて」
あなたのことを意識し過ぎて――とは絶対に口に出来ない。
「君は、我が国のことをどれくらい知ってるのだろうか?」
「妹が……楽園だと言っていました。最先端の設備と自然が融和している、と。私は、図書館で調べたことしか判りません。二度に渡る太平洋戦争で国土は荒れ果て、完全な独立までは半世紀を要し、アズウォルドを今の豊かな国に導いたのは……十二年前に立太子と同時に摂政となられたレイ皇太子殿下である、と」
「楽園、か。――アズウォルド国民の九割に日本とアメリカ、両方の血が入っている。それが何を意味するか判ってもらえるだろうか」
「大国……戦勝国が戦地において、様々なものを略奪した、ということでしょうか」
彼の国が太平洋上の重要な戦略拠点となりうるのは、小学生にも判りそうなものであった。日米だけでなく、ロシア・英国・スペイン……当時の大国はこぞって、かの地を狙ったであろう。
ティナは、答え辛い質問に、出来る限りの敬意と思いやりを持って返答する。
皇太子はティナの答えに満足したのか、微かに口元が緩んだ。
「略奪、と言われれば気が楽だ。正確には、我らが差し出した。――四方を海に囲まれ、自然の要塞に守られて暮らして来た我が国には、近代兵器を手にした外敵に立ち向かう術はなかった。我らはあらゆる物を差し出して……言い方は悪いが、命乞いをしたのだ。その結果、この体に流れる血は、最早、二世紀前の祖先とは遥かに違ってしまった」
「では、それは間違いだった、とお考えですか?」
「そう言う者もいる。だが、私はそうは思わない。――自らの誇りを捨て子孫へと命を繋ぐ。その気高い自己犠牲がなければ、アズウォルドは、過去の歴史にその名を留めるになったであろう」
ティナは、彼がアメリカや日本を恨んでいるのではないか、と思いかけ……、すぐに心の中で否定した。
皇太子の表情は穏やかで、その言葉にマイナスの感情などまるでなかったからだ。
「私もそうありたいと思っている。祖先から受け継いだものを、より良い形にして子孫へと繋ぐ。そのためなら、どんな犠牲も厭わない。あのアズル・ブルーの海を血で汚さないためなら、私は何でもする」
「アズル・ブルー?」
「太平洋で最も深く美しい青だ。アズル王室の守護石でもある“アズライト”という鉱石がその名の由来だ。我が国の名にもなっている」
「す、すみません。不勉強で……」
恐縮するティナの前に、皇太子は右手首を差し出した。そこにあるのは青紫に近い濃紺で彩られたバングルだ。思わず、惹き込まれそうになる。それは、ティナの心を捕えたブルー。意外な発見に、ティナは思わず声を上げた。
「ああ、そうだったんだわ!」
「どうした?」
「殿下の瞳です。ずっとアトランティコ・ブルーだと思ってたんですけど……このバングルを見て気付きました。殿下の瞳はアズル・ブルーだったんですね」
無邪気に声を上げると、ティナは無意識でバングルに触れた。
そして、
「きっと叶います。あなたがいらっしゃる限り、この太平洋を舞台に再び戦火が起こることはありえません。次の王があなたで、アズウォルドの国民は本当に幸せだわ」
ティナは心の底から感動していたのだ。アメリカ人の彼女にとって王政には馴染みがない。漠然と、王族=上流階級のトップで、パーティに明け暮れている人種だと思っていた。だが、この人は違う。理由は判らないが、兄である王のため、王妃を探して回るなど、よほどのことであろう。
ティナは自分の中に湧き上がった感情に素直に身を委ね、バングル越しに彼の手を握り締めたまま、そのアズル・ブルーの瞳を見つめ続けていた。




