第45話「海に沈む天使」
右手のバングルをそうっと撫で、口づけた。
だが目に映る海の色は、その全てがレイを思い出させる。
日本語に続いて英語で船内放送が流れる。
フェリーは間もなく海上エアポートに到着すると案内があった。ティナは足下に置いたボストンバッグを持ち上げようと屈み込む。
その時、隣に五~六歳くらいの少年が走り寄った。離れていく本島を見て、日本語で歓声を上げる。直後、少年はなんとデッキのフェンスに足を掛け、上り始めたのだ。
(なんて危ない真似を……)
注意しようと思ったが日本語は判らない。英語で話しかけ驚かせはいけない。そう思ったティナは親を探して周囲を見回した。ティナが目を離した一瞬、少年は足を滑らせフェンスの向こう側に体が傾いた!
「危ない!」
ティナは慌てて駆け寄り少年を支える。
だが、小さな子供とはいえ、膝までフェンスの向こうに出てしまった状態だ。ティナの予想以上にずっしりと重い。とても彼女独りで引っ張り上げるのは無理に思える。
ようやく周囲から、「子供が落ちそうだぞ!」「乗組員はいないのか?」「早く助けろ」そんな声が上がり始めた。
「しっかり、坊や。すぐに引き上げてくれるから。お願い、動かないで……」
少年が怯えて動けば動くほど、ティナは手が滑りそうになる。
(誰か……誰か、助けて……)
そう思った直後、乗組員が飛んで来て、ティナの反対側から少年を抱え、引き上げてくれたのだった。
ティナはフェンスにもたれ掛かり、大きく息を吐いた。そして頭上から、エアポートに着岸します、とアナウンスが流れたのである。
スクリューが止まり、その時――船が大きく揺れた。
ティナもバランスを崩し、鉄製のフェンスを掴もうとした……瞬間、彼女の指は空を切り、体は宙に浮いたのだった!
*~*~*~*
「殿下、次の船にミス・メイソンが乗船されておいでです」
「何度も言わずとも、判っている」
王宮からの連絡はサトウであった。
レイからのメールで『王室法改正案』の真相を知り、サトウは慌ててティナの元を訪れる。だが、ひと足遅かった。ティナはセラドン宮殿を後にしていた。
サトウはすぐさまビジネスゲートに連絡し、ティナを引き止めるよう指示する。しかし、通過した形跡はなく、ゲートチェックにも引っ掛からない。その直後だ、観光ゲートから出国したとの報告を受けた。しかし、その時すでに、ティナが予約を入れた出発便が判明しており、それは、レイのアズウォルド到着後。サトウがレイに緊急連絡を入れたのは、その後であった。
「全く、君たち親子はそんなに私を信用していないのか? 私が皇太子の役目を投げ出し、国を捨てると本気で思っているのか?」
「も、申し訳ございません」
レイの怒りは行き場がなく、ついつい父親の分までニックを叱り付けてしまう。
だが、ティナもティナである。
あれほど待つように言ったはずだ。バングルも外すな、と伝えた。たとえサトウに何を言われても、なぜレイを信じようとしないのか。
そんな苛立ちを抱え、レイは王族専用ルームの窓から海を見ていた。本島からのフェリーがしだいに近づいてくる。これにティナが乗っているはずだ。そう思った瞬間、落ち着いてなどいられない。レイは部屋から飛び出し、着岸ゲートに足早に向かった。
「殿下? 殿下っ!? こちらで……どうか、こちらでお待ち下さい」
「いや、迎えに行く。あのじゃじゃ馬娘のことだ。目を離すと何をしでかすか判らない!」
「で、でんかっ!」
止めるニックらを無視してレイは突き進んだ。すれ違う者は驚いて通路の端に寄り、頭を下げる。
そして、フェリーの近くまでついた時、周囲で悲鳴が上がったのだ。
ニックらは緊急事態に備えホルスターの拳銃に手をやりつつ、レイを守ろうとする。
だが――。
「人がデッキから落ちた!」
「女が海に落ちたぞ!」
「金髪の若い女だ!」
まさか! 嫌な予感がレイの胸を走る。
その瞬間、彼はゲートを抜け、警護官と係員を振り切り、今まさに着岸しようとする船に駆け寄った。
*~*~*~*
ティナに何も考える暇はなかった。
「えっ?」と思った時には全身が風に包まれ――半瞬後、彼女の体は海の中だった。
綿のシャツとクロップドパンツは、あっという間に彼女の全身を拘束し、海面から遠ざける。もがけばもがく程、腕も脚も糸が絡まるかのように、自由がなくなってしまうのだ。
ふと、ティナの心に絶望が過ぎった。
このままアメリカに帰って何が待っていると言うのだろう? どのみち、孤独なまま一生を終えるに決まっている。そうでなければ、父に利用され、金儲けの道具のように扱われるだけだ。
それならいっそ、このアズル・ブルーの海に眠りたい。ずっとレイの傍にいられるのなら、それも悪くない……。
そんな感情に囚われ、ティナは静かに目を閉じ、海の底に吸い込まれ――。
その瞬間である。ティナは後ろから抱き締められた。
ティナは不意に恐怖を覚え、パニックに襲われる。手を伸ばし、自分に触れた腕にしがみつこうと暴れた。急に、生き延びたい、助かりたいと思ったのだ。死にたくない、もう一度レイに逢いたい。まだ、一度も聞いてはいないのだ、「愛している」の言葉を。
ただ一度でいい。レイの口から聞いてから死にたい。
その時、海の青よりもっと深い青がティナの目の前に近づいた。
そして――いつかのプールと同じように唇が重なり、彼女は全身から力が抜けていくのを感じていた。
(ああ、神様が願いを叶えてくださったんだわ)
ティナはぼんやりとした頭で考えていた。レイの腕がティナの脇の下に回り体を支える。そのまま、彼は力強く水を蹴った。その姿はまるで魚のようだ。その時、揺らめくティナの視界に光が映った。太陽の光だ。見る間に、海面が近くなる。
ひょっとしたらこのレイは幻で、光の向こうは天国なのかも知れない。そんな途方もないことまでティナは考えていた。
水面に顔が出た瞬間、ティナは必死で息をした。何度も息を吸って吐いてと繰り返す。
「ティナ! 怪我は!? どこか痛むところはないか?」
それはレイの声であった。
まさか……本物のわけがない。レイは日本にいるのだ。こんなに早く帰って来れるはずがない。それに、レイは一国の皇太子である。アメリカ人女性を助けるために、自ら海に飛び込むなど、そんな愚かなことをするわけがないのだ。
「ティナ、苦しいのか?」
「い、え。……だいじょうぶ」
そう答えた直後、ティナは再び唇を奪われた。
それは強く、激しく、これまでの冷静な仮面を捨て去り、男の本能を剥き出しにしたキスであった。
「あ、あの……ま、まって、ちょっと」
「駄目だ。もう放さない。君のブロンドが海中に見えたとき、心臓が止まった。ティナ、君はポセイドンの花嫁になりたいのか?」
「違うわ。でも……そのほうが良かったのかも知れない」
「いいや、ティナ。君は海神の妻には相応しくないよ。こんなじゃじゃ馬は、さすがのポセイドンも持て余すだろう」
レイの言葉にティナは一瞬ムッとした。でも、彼の言う通りなのだ。
いつだって悪気などない。今回も、自分から飛び込んだわけではないのだ。でも……わざとではなくても、役に立つことをしようとしても、トラブルを引き起こす。
自分はどうしてこうなのだろう。静かにしようとすれば騒動になり、隠れるつもりが目立っている。
落ち込むティナにレイの声が聞こえた。
「全く! 君と一緒にいると、私はとんでもないことばかりしている。そのせいでサトウやニックまでメチャクチャだ」
「ええそうよ! 私は皆を困らせるとんでもない女なの! 誰の妻にも相応しくないわ! 放っておいてちょうだい」
「いや駄目だ。君をアメリカに帰すのはやめだ! もちろんポセイドンにも渡さない。君に相応しいのはこの私だ。――ティナ、愛している」