第39話「プリンスの婚約者」
「まあ! クリスティーナ様……まさか、こちらにお戻りだなんて」
王宮に足を踏み入れた途端、驚いた声を上げたのは女官長スザンナ・アライだ。
だがその声はこれまでに比べ、無条件で歓迎されるムードではなかった。女官長は戸惑いを顕わにし、ティナもどうしたらいいのか判らない。
他の女官たちや王宮の人間も、一様にティナとは距離を置きたがっている。
敵意とまではいかないが、ティナが以前味わったのと同じ気配を感じる。それは、“侮蔑”であった。
「殿下のご命令で、ミス・クリスティーナ・メイソンをお連れ致しました。殿下は最上階の宿泊室でございますね」
ニックはそう言うと、さっさとティナを促し、階段を上がろうとする。
そんな彼を、女官長は慌てて止めようとした。
「少々お待ち下さいませ。私が皇太子さまにご確認しましてから……。ニック! お待ち下さいと申し上げておりますでしょう! あちらのお部屋には、日本からの」
「殿下のご命令と申し上げております」
「しかし、お部屋にはあの方が……。クリスティーナ様をお通しするのは」
渋る女官長にニックは一歩も引かない。
「責任は私が取ります。よろしいですね、スザンナ」
ティナが女官長とすれ違う時、彼女は気まずそうに視線を逸らせた。それは憐れみと同情の混ざった微妙な眼差しで……。
ほんの数分後、ティナはその視線の意味を知る。
そこは国賓用の宿泊室であった。つい先日までティナが使っていた部屋だ。どうやら、今は別の利用者がいるらしい。それが日本からのお客様で、国賓であることは間違いない。或いは国賓と同格の人間か――。
噴水の間は相変わらず涼しげなマイナスイオンで満たされている。大きく開かれた窓の向こうには、水色に輝く綺麗な空が見えた。
奥の寝室から人の話し声が聞こえる。それがレイの声だとティナはすぐに気がついた。だが、もう一方は若い女性の声だ。英語らしいが発音がたどたどしい。
「あなたを……信じていれば間違いないと判っているんです。でも、不安で……本当に結婚できるのかどうか……わたし」
「ミサキ、私を信じて下さい。必ずやあなたの望みを叶えましょう。私はあなたの幸福のためなら、どんなことでもするつもりだ」
ティナの心臓がトクンと鳴った。
レイの婚約者の名前が確か、ミサキ・トオノと言ったはずだ。そんなことを思い出しつつ、ティナはもう一歩踏み出す。すると、寝室の中が見えて……。
二人はソファに腰掛けていた。
ストレートで真っ黒な髪が見える。長さは肩までで綺麗に切り揃えられていた。ふと見えた横顔は、女性というより少女と呼ぶほうが相応しい。アジアン特有の幼さが垣間見える。
彼女は口元を白いレースのハンカチで押さえ、レイはそんな彼女の肩を抱き、顔を覗き込んでいた。
「ごめんなさい。わたし、こんなことになるんなんて思わなくて……。あなたしか、もう頼れる方はいないんです」
「判っています。私には、あなたを守る義務と責任がある。もっと早く頼ってきてくれたら良かったのです。さあ、そんなに泣いてはお腹の子供に良くない。あなたは安心して……誰だ!」
突如上がるレイの厳しい声に、ティナは息を飲む。直後、ミサキを庇うようにレイは立ち上がり、ソファを飛び越えた。
「ティナ……。なぜ君がこの場所に居るんだ?」
それは、これまで一度も聞いたことのない、レイの声だった。動揺と僅かな怒り……うろたえたレイの様子に、ティナは一言も発せず、踵を返した。
ティナは急ぎ足で噴水の間を通り抜け、廊下に飛び出す。廊下に立つ衛兵が驚いたが、彼らも事情を察したのだろう、見ない振りをしている。どうやら、王宮の全員がニックの言ったような誤解をしているらしい。
ティナは居た堪れなくなり、階段を駆け下りるため、走り出そうとした。
しかし、その瞬間、ティナは手首を掴まれる。
「ティナ! 君は誤解をしている。その誤解を解きたいが、ここは適切な場所じゃない」
「何も誤解はしてないわ! それに、仮にそうでも、あなたが私に説明する義務はないわ。私はあなたの側室じゃないんだからっ!」
誰に聞かれても構わない。ティナはそんなつもりで大声で怒鳴った。
レイはとくに怒る様子もなく、表情も変えずに答える。
「もちろんだ。君が私の側室であったことは一度もない。未来においても同じだ」
「だったら手を放して……」
「逃げないと約束するなら」
そんなレイの言葉にティナは渋々頷いた。
レイはため息をひとつ吐くと、
「ニックだな。奴は信頼に足る男だが、柔軟性に欠ける。そして、父親同様、いつまでも私を子供扱いする」
困ったような笑みを浮かべた。
しかし、困っているのはティナのほうであった。こんな状況でも、もう一度レイに会えたことが嬉しくて仕方ないのだから。だが、さっきの会話から、レイはミサキと結婚間近であることが予測出来る。それも、婚約者の妊娠という形で。
「ティナ、私はこれから日本に行かなくてはならない。数日で戻る。君はその間、セラドン宮殿に滞在してくれ。いいね。これ以上、私を困らせるものではない」
「帰るわ……アメリカに。そのほうがあなたも」
「ダメだ! まだダメだ。約束してくれ。私の帰国を待つ、と」
「殿下っ! ミス・トオノがご気分が悪いと申されておいでです。お部屋にお戻りを!」
それはニックの声であった。
「行って、早く」
ティナはミサキを気遣いそう告げる。
「君が約束してくれたら」
「でも……」
今さら、何だというのだろう。レイは本当に自分を側室にするつもりなのだろうか。そう思うとティナは軽々しく返事が出来ない。
レイの傍にいたい。でも、二番目になるのは無理なのだ。我慢出来ると思ったけれど、不可能だと教えてくれたのはレイである。そして、もし子供が出来たら、どんなことをしても結婚すると彼は言った。だからこそ、抱かない、と。
だが、ミサキのことは抱いたのだ。
婚約者なのだから、そういったことになってもおかしくはない。他の、それも複数の女性と深い関係になるより、よほど教義的にもモラルに即した行いだ。ティナを抱くよりもずっと……判ってはいても、悔しくて苦しくて、とても耐えられそうにない。
なのにレイは、ティナにまだアズウォルドに残れと言う。
「皇太子殿下!」
「黙れ! 私ではなく医者を呼べ!」
「ミサキ様は殿下の御名をお呼びでございます」
「……!」