第35話「欲情の炎」
めくるめくキスであった。
今度は絶対に拒絶しよう、ティナはそう心に決めていたのだ。そう、ほんの十秒前まで。
愛することすら許されないなら、キスなどしてはいけない。ティナが簡単に応じるから、すぐにでもベッドに飛び込みそうだから、レイはティナを軽んじているのだろう。
判っていても、レイの唇が触れた瞬間、ティナの全身に衝撃が駆け抜ける。身体の奥が熱く火照り、理性も常識もかなぐり捨てて、レイに全てを捧げたいと願ってしまう。
ティナは足元にバッグを落とし、レイの首に手を回した。今の彼女はブラジャーを着けていない。尖った胸の先端は、キャミソールとシャツ越しにティナの興奮をレイに伝えていた。
「ティナ、ティナ……ここまでだ。このコテージには私たちだけなんだ」
「そうよ。私たちだけ、誰も見てないし、誰も知らないわ」
ここまでと言いながら、レイはティナの首筋を唇でなぞった。金色の髪を手で避け、荒々しい呼吸を繰り返す喉元に舌を這わす。その、あまりに官能的な感触に、ティナの身体は小刻みに震えた。
「ティナ、このままだと私は君を傷つけてしまう」
「傷つかないわ。ううん、傷ついても構わないの。一度だけでいいの。あなたのことを覚えておきたい」
ティナは溺れかかったようにレイにしがみ付いた。レイはそんなティナの髪を撫で、もう片方の手を彼女の背中に回しながら答える。
「私はこれでもカトリックの国の皇太子なんだが……」
「だったら何?」
「婚前交渉は禁止されている」
今のレイは、アサギ島のビーチに比べ、格段に余裕のある表情だ。
逆にティナのほうが、身の置き場に困っていた。
「じゃあ、何? レイ、あなたは童貞なの!?」
ティナはレイの腕の中に抱かれたまま、少し身体を離すとアズル・ブルーの瞳を睨んで言った。
レイは軽く肩をすくめ、苦笑いを浮かべる。
「どんな返事がお望みかな?」
「ほ、ほんとうのことよ」
「結構」
一言答えると、レイはティナを横抱きにした。
「きゃっ」
ティナは極々小さな悲鳴を上げる。レイは先ほど一人で向かったキッチン横の通路に、今度はティナを抱えて足を踏み入れたのだった。
*~*~*~*
コテージは平屋建てで通路の奥に寝室が二つある。更に奥には裏口のドアがあり、その脇に電気のブレーカーがあった。
レイはブレーカーを上げた直後、空気を入れ替えるために、寝室の一部屋は扉も窓も開けたままにしていたのだ。
その部屋に入るなり、レイはティナを下ろす。そして徐に窓を閉め、クローゼットの引き出しからシーツを出してベッドメイクを始めたのだった。
世の中のほとんどの女性は、埃の積もったカビが生えたようなマットレスに押し倒されるのを嫌がるだろう。その反面、押し倒される情熱を、女性が望んでいることもレイは知っていた。
「さあ出来たよ、ティナ」
「え……ええ」
レイはティナの声に、微妙な戸惑いを感じホッとした。ティナが落ち着きを取り戻せば、これ以上のことにはならないだろう。
もし、レイに婚約者がいなければ。レイが皇太子でなければ。マットレスにカビが生えていても関係ない。いや、リビングの埃だらけの床の上に押し倒していたかも知れない。
それ以前に、セラドン宮殿のプールサイドで関係を持っていただろう。
この国に、レイ以外に王子はいない。
唯ひとりの後継者なのだ。プリンスの称号は、何があっても捨てることなど出来ない。
「さあ……」
レイはティナの手を取り、そのままベッドに押し倒した。上から覆いかぶさるように抱き締め、ピンク色に艶めく唇に吐息を重ねる。このまま食べてしまいたい欲求に駆られるが、寸でのところで体を引き剥がした。
薄い掛け布団をティナに被せ、レイは身を起こす。
「レ……イ?」
「もういいだろう? これ以上は“おふざけ”が過ぎる。冗談では済まなくなる」
レイはそのまま寝室から立ち去ろうとした。その背に、ティナはとんでもないセリフをぶつけたのである。
「そうね。あなたのキスはいつも素敵で、私はとっくに冗談じゃ済まなくなってるわ。今のキスだってそう。熱くなった身体をどうやって静めたらいいの? 冷たいシャワーを浴びたらいいのかしら。あなたが嫌なら、誰か他の人を寄越してちょうだい。私みたいな女でも抱きたいっていう男性をね」
このティナの言葉は著しくレイの沽券を傷つけた。
自分を抱いて慰めてくれる男なら誰でもいい。シャワー代わりの男はレイでなくともいい、とティナは言ったのだ。
ただ、レイにも誤りはあった。狂いそうなほどの性衝動に耐えるのは、男の側だけだと思い込んでいたのである。
「ティナ――君は、自分が何を言ったか判っているのか?」
「ええ、判ってるわ。好きに思っていいんでしょう? あなたはそうやって、結婚してくれない婚約者に貞操を捧げ続けるといいわ!」
ティナの中でセックスは、男女が愛を語る上で欠かせないものだ。
抱き合うことで相手の全てを知ることが出来、二人の間はより親密なものとなる――。そんな、ティーンエイジャー顔負けの理想を、ティナは本気で抱いていたのだ。なぜなら彼女の愛と性に対する憧れは十六歳で止まったままなのだから。
だからこそ、ティナはレイに抱かれたかった。一度思いを遂げたら、顕著な身体の反応も落ち着くはずだ、と。
まさか、罪の果実を一度味わってしまえば、後は際限なく求め続けることになるなんて……。その行為に麻薬のような効果があることなど、ティナに判るはずもない。
深く考えず、ティナはレイを本気で怒らせてしまったのだ。
コテージの寝室は誰もいないかのように静まり返った。
やがて、ティナの耳に、シュルッと衣擦れの音が聞こえ……。それがネクタイを解く音だと気づいた直後、ベッドが大きく傾いだのである。
「いいだろう、ティナ。君がそんなにセックスが好きで、はしたいない女性だとは思わなかった。私が点けた火は、私が消すとしよう。さあ――脚を開くんだ」