第29話「プリンスの沈黙」
「……中央へ」
「私は結構です」
「そうはいかない。君が主賓で、君のための晩餐なのだ。私たちが踊らなければ……皆が気まずい思いをする」
ティナは渋々レイの手を取り、フロアのセンターへ歩き出した。
今は随所を衝立で仕切られているが、本来“騎士の間”は、舞踏会場・立食形式のパーティ会場として使用されていた。或いはスコールの時期、国の公式行事に使われるくらいであろうか。
フロア全体では、総勢六基のシャンデリアが吊られている。そして、天井一面に大勢の騎士が描かれていた。名前の由来はこの天井画だと、こっそり教えてくれたのはアンナだ。正面、中二階にはオーケストラ・ボックスがあり、晩餐のあいだ中、バッハ作曲『無伴奏チェロ組曲』が演奏されていた。
アメリカからの招待客であるティナを歓迎しての晩餐だ。
レイはティナをエスコートするため、正面ドアの前で立っている。遠目にも表情は固い。数時間ぶりに二人は顔を合わせ……その瞬間、ティナの動きが止まった。
(どうして? じゃあ、ミスター・サトウの言葉は真実だったの?)
レイの右手首にアズライトのバングルがあった。
それは、ほんの三十分前まで、ティナの手にあったものだ。サトウはレイの命令で、例のバングルとエメラルドのブレスレットを交換したい、そう言った。俄に、信じられるものではない。しかしティナは、バングルをはめて晩餐会に出席することを躊躇していた。
レイの役に立ちたいのであって、足を引っ張ることだけはしたくない。その思いから、ティナはレイの手によりはめられたバングルを自ら外した。そして、緑のブレスレットを付けたのだ。
サトウの命令が偽りなら、レイは激怒するかも知れない。でも、その時はサトウに言われたのだと、説明すればいい。
だが、バングルがレイの手にあると言うことは、サトウの言葉に偽りはなかった、ということだ。
レイはまるで表情を見せず、静かにティナの右手を取った。深い紺碧の瞳は、凍りつくようなアイスブルーに煌き、彼女の手首を一瞥する。そのまま無言で、“騎士の間”に入場したのであった。
晩餐会は終始険悪なムードで進んだ。
かろうじて盛り上げてくれたのは、アンナの母、プリンセス・ルシールくらいだ。彼女が気遣い、ティナをはじめ、アンナやソーヤの若い者に話しかけ、場を盛り上げようとしてくれる。だが、主催者であるはずのレイは、淡々と食事を進めるだけであった。
そして食事が終わり、衝立の向こうに用意された舞踏会場へと皆、足を向けた。フロアの壁際にテーブルが置かれ、ディジェスチフ……食後酒が振舞われる。
ティナは用意された中から、一九三〇年代のシャトー・ディケムを選んだ。フランス・ソーテルヌ地方で作られた最高級の貴腐ワインである。そして、芳醇な甘味を持ったデザートワインとは対照的に、塩味のブルーチーズ「ロックフォール」が添えられていた。ほとんど臭みはない。だが、ティナはアオカビのチーズは苦手なのでそれを遠慮し、ワインをひと口、喉に流し込んだ。
口当たりが良く、ひんやりとしている。熱い国に合わせて、少し低め温度で提供しているのかも知れない。
レイはティナに誘惑された、と怒っているのだ。だから、ティナからバングルを取り上げ、冷ややかに無視する。まるで、ビーチのキスなどなかったかのように……。
「ロックフォールは苦手かい? アーモンドビスケットを持ってこようか? それともフォアグラのほうがいいかな?」
ハッとしてティナは顔を上げる。一瞬で目を奪われたのは、煌くアズルブルーの瞳だった。
「ああ、失礼。ソーヤ・ジャック・サイオンジと言います。さっきは離れていて、とても挨拶は出来なかった」
そう言ってティナに手を差し出したのは、レイより淡い紅茶色の髪と、日に焼けた肌を持つ、長身の男性であった。
彼以外は皆、燕尾服を着ている。ソーヤは海軍用の、ネイビーのメスドレスに白いウェストコートを着用していた。だが、何より瞳の色でレイの異母弟だとすぐに気付く。
「クリスティーナ・メイソンです。えっと、殿下……」
「僕に敬称は不要だ。ソーヤでいいよ、クリスティーナ。君は、僕の姉になるんだろうか?」
レイに似ていると思ったが、ムードは従姉のアンナのほうによく似ていた。敬称を嫌うところも同じみたいだ。
「では私も、ティナと呼んでください。そのことは……私にもよく判らないんです」
「アンナに聞いたんだ。君がレイを変えてくれるかもしれないって」
ソーヤはなぜか可笑しそうに、軽い口調で話した。だがティナには、ソーヤの言葉の意味が全く判らない。今夜のディナーを見たら、「君は何をして、レイの機嫌を損ねたの?」そう聞かれるとばかり思っていた。
「確かに……お優しい殿下のお心を、悪い方向に変えてしまったのかも知れませんね」
ティナは真面目に答えたつもりであった。だが、ソーヤは紅茶色の髪を揺らしながら、楽しそうに笑ったのだ。
「何が可笑しいんですか?」
「いや、充分だよ。変えたことに違いない。プラスはマイナスでマイナスはプラスになる。ほら、ご覧。レイがこれまで一度も見せたことのない目で、僕を睨んでいる」
ソーヤに言われ視線を動かすと、そこにレイが立っていた。
先刻の凍てつく瞳が、今度は沸騰している。滾るような眼差しで、ティナとソーヤを見ていたのだった。




