第27話「レディ・アンナ」
「はい」
ティナはハッキリと答える。
立ち位置がどうもまずい。おそらくはレディの称号を持つ方だろう。ティナの場所からでは、上から話すことになってしまう。
「申し訳ありません。そちらに下りて行ってもよろしいでしょうか?」
「ええ、どうぞ。私の庭じゃないけど、歓迎するわ」
彼女はクスッと笑って言ったのだった。
「失礼いたします。私の間違いでなければ、アンナ・クリスティーヌ・フォスター様でいらっしゃいますか?」
「ええ」
彼女はプリンセス・ルシールの娘、レディ・アンナと呼ばれる女性であった。今夜、イブニングドレスを着てここにいる若い女性は、ティナ以外に彼女しかいないはずだ。
「ああ、でも敬称や敬語は止めてね。あっと、レディもなしでお願い。アンナでいいわ」
気さくに言うとニッコリ笑って手を差し出した。
ティナもその手を握り返して、
「ええ、判ったわ。じゃ私のこともティナと」
「OK、ティナ。アズウォルドにようこそ! 楽しんでるかしら?」
「とても。特別室にある噴水の間で、三日は楽しめそうよ」
「それは素敵! 私は二階フロアに流れる川で、二年前に溺れそうになったわ」
二人は声を立てて笑った。友人もいないティナにとって、妹以外と親しく話して笑ったのは何年ぶりであろう。
ティナはアンナの略歴を頭の中で思い出していた。
アンナはレイより三歳年上の三十三歳。日系アズウォルド人、ヒサシ・フォスター教育大臣を父に持ち、姉にレディ・セイラがいる。セイラは十六年前、二十歳の若さでオーストラリアの牧場に嫁いだ。一方アンナは、英国のケンブリッジ大学、日本の東京医科大学を優秀な成績で卒業。現在アズウォルド国立病院で外科医を務める。その傍らで、全島に総合病院を作るための活動にも従事。牧場主の妻となり五人の母となった姉とは対象的に、独身であった。
そして、国賓を招いての本格的な晩餐会では、常にレイのパートナーを務めている。ファーストレディのいないこの国で、それと同等の存在だった。
「王立図書館のアドバイザーですって?」
「え? ええ、司書をしているの」
「国立図書館があるのに、更に王立図書館まで? レイもまた……考えるわね」
アンナはクスクス笑っている。
「国立は蔵書が少ない……そんな風に仰っていたのだけど」
「そうね、たった一千万冊くらいかしら」
ティナは開いた口が塞がらない。アメリカ屈指の議会図書館に匹敵する蔵書で、ティナの勤める図書館のざっと十倍だ。
「ねえ、ティナ。レイはあなたに何か約束した?」
「えっ……あの」
「ああ、いいわ。そうね……『ヤマトナデシコ』との婚約は解消する気かしら?」
「まさかっ!?」
ティナはビックリして大きな声を上げてしまった。
「レイはね、独りでこの国を背負うつもりなのよ。でも、絶対に無理なの」
「そんなこと……彼なら出来るわ」
「いいえ無理よ」
「だって、現に今だって、実際のところは彼のおかげだって……色んな所に書いてあったわ」
アンナは前に垂れる黒髪をすくい上げた。綺麗な額がくっきりと浮かび上がる。日本では『フジビタイ』と言うそうだ。アンナは日系の父の血か、祖母の血を濃く受け継いでいるのだろう。
だがその中にあって、大きな瞳だけは青い光を放っていた。ライトのせいかもしれない。
「それじゃあなたは、レイがこの国の礎になればいいと思ってる? 国のため、称号を守るために生きることが彼の幸せ? 王族が個人の幸福を追求したらいけないなんて、誰が決めたの? 個人の幸福のみを追求することは、王族でなくてもしてはいけないことよ。どんな人間も一人では、自分を支えることも出来ない。一人では持てない荷物も二人なら……もっと楽に持てると思うわ」
ティナには何も言い返せなかった。
「ごめんなさいね。突然こんなこと。でも、あなたにならお願いできると思ったの……そのバングルをはめた、あなたになら」
ティナはハッとして右手を隠した。
スザンナには着替えは一人で出来ると言い、手伝いは遠慮した。ショールが付いていたので、それを右手に撒いて誤魔化したつもりであった。
「食事が始まったらどうするつもり? 『騎士の間』に、ショールを着けては入れないわ」
アンナの言葉は最もだ。どうすればいいのか、ティナも迷っていた。レイは外すなと言うけれど……。
その時、ティナの後方で中庭の芝生を踏み締める足音がした。
「あら、ニックお久しぶり。お元気だったかしら?」
アンナの言葉は再会を喜んでいる内容だが、声が与える印象はまるで逆だ。険を含んだ台詞に、ティナのほうがビックリした。
「ご無沙汰しております、レディ・アンナ」
そう言って膝を折り、恭しく頭を下げたのは、レイの警護官ニック・サトウであった。茶褐色の髪を短く刈り上げ、同色の瞳をしていた。レイより一回り大柄で、見るからにSPといった印象の男性だ。
彼は、今日のアサギ島にも同行していた。
(ちょっと待って、あの……ビーチでのキスを見られていたらどうしよう)
不意にレイのキスを思い出し、蒼白になるティナなのだった。