第25話「愛と称号」
「ここはアサギ島のスマルト宮殿ではないか。違うのか?」
「仰せの通り。そして、今ここにはミセス・サイオンジがご滞在でございます」
「……知っている」
実のところ、アズウォルドはキスの挨拶が習慣の国ではない。キスは特別な思いを籠めて、特別な相手とするものだ。欧米での留学生活が長いレイにしても変わりはない。
一目で親密な関係を思わせるキスなど、昼間のビーチですべきことではなかった。
アサギ島上空に許可なしでヘリは飛べない。だが、万に一つ、パパラッチに撮られでもした時は……。ティナをマスコミから守るため、王妃の話を勧めたのだ。なのに、これでは余計に苦しめることにもなりかねない。
「殿下。もし、ミセス・サイオンジの目に、お二人の仲がご親密に映れば……。聡明な殿下のことです。全て言わずともお判りでしょう。一刻も早く、フサコ様のバングルをお返し願うべきかと」
「サトウ、それは」
「いえ。もちろん、クリスティーナ嬢には特別なお品を用意させて頂いております。それでご満足頂けるかと」
レイは軽く舌先で唇を湿らせ、重い口を開く。
「そういう問題ではなく。――彼女はすでに気付いている。クリスティーナを私の愛人と呼び、一騒ぎ起こしてくれた後だ」
サトウは目を閉じると大きく頭を振った。
「殿下。畏れながら申し上げます。ミス・メイソンを直ちにアメリカに帰すべきです。国王陛下の問題が無事に片付きましたら、ご自身の婚約と併せて、あらためてお考えになられるのがよろしいでしょう」
レイは窓から浜辺を見下ろした。
ついさっきのことだ。服を着たまま海の中に座り込み、三十年の人生で初めて、レイは生まれながらに背負ったプリンスの称号を忘れた。
サトウの電話がなければ、間違いなく婚約者を裏切ったであろう。いや、もうすでに心は……。
「サトウ、ミス・メイソンは陛下のことを知った上で、結婚を承諾してくれたのだ」
「そ、それは……しかし、殿下、先ほどの」
「私を愛しているそうだ。だから、私の役に立ちたいと言った。そのために、兄の妃となり、この島で過ごす、と」
サトウは驚愕の表情を浮かべ絶句した。
「私はずっと父を軽蔑していた。公人でありながら私心を捨て切れず……結果、二人の妻を不幸にした。愛を望むなら、王位を捨てるべきだったのだ。私なら、そうするだろう」
「殿下っ!」
サトウは青褪めレイを見つめる。
「大丈夫だ。そんな顔をしなくてもいい。――ただ、少しだけ父の苦悩を理解出来たような気もする。国家間の問題さえなければ、彼はおそらく、よき父よき夫として天寿を全うしたであろう。だが私には……」
レイは窓枠を握り締め言葉に詰まった。瞬きもせず、食い入るように浜辺を見つめ続ける。
五分、いや実際には一分程度だったかも知れない。息苦しい時間が流れた。
(今ならまだ間に合う……)
レイはこの時、心の内に芽生えた愛を、理性と称号の名の下に強引に引き剥がした。そして、愛を知った背徳の海に投げ捨てる。傷口からは血が滴り落ち、予想外の痛みに彼は眩暈を覚えた。
「サトウ、本島に戻る。ヘリを用意してくれ」
「まだ、ミス・メイソンの着替えが整ってないのでは?」
「先に戻ろう。今は、同乗すべきでない。後で迎えのヘリを回すと彼女に伝えてくれ」
「承知致しました」
濡れた髪をかき上げ、執務室を後にするレイであった。
*~*~*~*
王宮は主に三つに分かれている。
一番手前は、一般人の見学可能な部分だ。外国人観光客用のツアーにも組み込まれている。美術館や博物館も併設しており、ゆっくり見て回れば、丸一日は掛かるであろう。
衛兵が入り口に立ち、警備が厳しくなるのが、国王や皇太子の執務室、国賓用の宿泊室などがあるゾーンだ。当然、一般人は立ち入り禁止である。
ティナはそこまでの立ち入りを許可されていた。無論、執務室などは立ち入れないが、廊下や中庭などフリーエリアは出入り自由であった。
その中庭を過ぎて、一番奥にあるのが国王の住居、プライベートゾーンである。
現在は主不在のため、ほぼ閉鎖状態だ。たまに、王族に繋がる人間が本島に来た際に、挨拶に訪れる程度である。
それは「国王に目通りし、滞在許可を得る」という形式上のことであった。
「まあまあ、クリスティーナ様、お帰りなさいませ。国王陛下にお目通りされましたとか。お疲れ様でございました」
王宮に戻るなり出迎えてくれたのは、女官長スザンナ・アライであった。
時刻は夜の八時に近い。あの後、スマルト宮殿の一室に通され、洋服一式を渡された。下着まで揃っており、着替えて部屋から出た時には……。レイはアサギ島を発った後であった。
「あら? お召し替えなさったのですか? 長袖では暑うございましょう」
「い、いえ。大丈夫ですから。気にしないで下さい」
ティナは慌てて言う。
だがそのとき気付いたのだ。頼んだわけでもないのに、用意されたシャツは長袖だった。レイがバングルのことを気にしたのだろうか? それとも他の誰かが……。
色々思い悩むティナの耳に、信じられない台詞が飛び込んできた。
「このお時間でしたら、晩餐会のお仕度には充分間に合いますね。よろしゅうございました」
女官長はニコニコとしているが、ティナには初耳だ。
「ば、ばんさんかいって……晩餐会ですか? そんなっ! あの、私には関係ありませんよね?」
「何を仰られます。皇太子殿下がアメリカから同行されたお客様……クリスティーナ様を、皆様にご紹介するための晩餐と伺っております」
足元がふらつき、思わず床に座り込みそうになるティナであった。