第24話「背徳のビーチ」
「お願いレイ、それ以上言わないで……お願い」
「ティナ……私には婚約者がいる。仮に、何らかの事情でミス・ミサキ・トオノとの結婚が無くなっても、私が妃に選ぶのは日本人だ。なぜなら、私の体には半分以上アメリカの血が流れている。だから」
「判ってる。判ってるわ。それでもあなたの役に立ちたいの。それでも……」
ティナの指がレイのチョコレート色の髪に触れた。
「一度触ってみたかったのよ。とても柔らかくてさらさらの髪ね」
「細くて柔らかくて縺れやすい。扱い辛い髪質のようだ。短くしたいんだが……刈上げのプリンスは見たくないと言われてね」
レイは切なげに微笑みながら、ティナの金髪に指を絡めた。ごく自然に二人の唇は触れ……軽く重ねるだけで、レイは滑るように頬から髪にキスを移した。
「綺麗だ。太陽の光を集めたような輝きだ」
レイは髪の上からティナの白い首筋に口づける。甘い吐息がティナの喉から零れ、首の付け根を震わせた。そしてそれはレイの唇にも伝わる。
レイは腰まで海に浸かり、水飛沫で全身びしょ濡れだ。レイに抱えられているとはいえ、ティナも大差ない格好である。
「震えてる……寒いなら戻って」
「いやっ!」
ティナは即座に答えた。
これほどレイを身近に感じたことはない。全身ずぶ濡れで、後のことを考えたらとてつもなく不安だ。それでも、一分一秒でも長く、レイと抱き合っていたい。ティナにはそれだけだった。
「ティナ……あまり身体を動かさないでくれ」
「ごめんなさい。重かったでしょう……私も水の中に」
「ああ、違う。そういう意味ではなくて。君にはどうも顕著な反応を示してしまう。――誓って言うが、私はこんな節操なしの男ではないんだ。説得力はないかも知れないが……」
髪から唇を離し、レイはティナを見つめて言った。
レイの頬は薄っすらと染まって見える。セラドン宮殿のプールほど直接密着しているわけではないが、それでもはっきりとティナのヒップに当たっていた。ティナの熱い視線を受け、彼の情熱は一層その存在を彼女の身体に伝える。
「判ってるわ、レイ。これは全部私のせいね」
「そうだと言ってしまえたら楽だが……。多分、違うだろう」
「どうして? 私のせいにして頂戴。何もかも。私はあなたのためなら何でもするわ。神を裏切ってもいい。もし……ほんの僅かでも、あなたの愛を得られるなら」
ティナの手がレイの指に触れ、彼女は軽くなぞるように指先にキスを繰り返す。ティナにはレイの全てが愛しかった。レイが望むなら、どんな場所にもキスしたであろう。そう、彼が望むなら……ティナの下で脈打つ高ぶりにすら口に寄せたはずだ。
「ティナ! ああ、ティナ。頼む、これ以上私を誘惑しないでくれ。私は神を裏切っても、この国は裏切れない。君を抱くことだけは、この命に懸けて出来ないのだ」
「キスを始めたのはあなたが先なのにっ!」
ティナはそう叫ぶとレイの瞳を間近で見つめた。アズル・ブルーの瞳に、彼の花嫁には決してなれない金髪女の姿が映る。
(この髪を全部黒く染めて日本人になれるなら……ヘーゼルの瞳を潰しても構わないのに)
「誘惑なんてしないわ。判らないもの。あなたを誘惑したいけど、どうしたらいいのか判らない。どうしたらあなたが誘惑できるのか教えて頂戴! 私は地獄に堕ちても構わないのに!」
緑と青の混じった瞳から、透明な雫が落ちる。次から次へと流れ出て、それはアズウォルドの海に溶けて行った。
「ティナ、もう手を離すんだ……そうでないと」
「ええいいわ。じゃあ先に離して。レイ、お願いあなたから離し」
涙に濡れるティナの頬を両手で挟み、レイは唇を重ねた。そして、ティナの唇を舌先で割り込み、彼女の舌を探り当てる。それは互いの秘密の場所を見つけ出したかのような行為で……二人は何度も何度も唇を押し付け合い、求め合った。
レイの手がティナの胸元で動き、ブラウスのボタンが三つ目まで外された。彼の唇は日焼けしてないティナの谷間をなぞり、更に奥を目指そうとした瞬間――
レイのジャケットの内ポケットから携帯電話のコール音が鳴り響く。
ビクッとして二人は顔を見合わせ……無言のまま数秒が過ぎ、それでも電話は鳴り止まない。やがてレイは深いため息をつき、携帯を取り出した。
『――私だ』
しだいに、レイの表情が目に見えて蒼白に変わる。
『判った』
たった二言でレイは電話を切った。ティナは何が起こったのか判らず、海水に浸かったまま座り込んでいた。
「レイ? あの……」
「ティナ、どうか一つだけ、私の頼みを聞いて欲しい」
「ええ、何?」
「何も言わないでくれ」
レイは無言のままティナを抱き上げ、背徳のビーチを後にする。彼の足元を濡らす、寄せては返す波が、まるで二人の未来を暗示するかのようだった。
*~*~*~*~*
スマルト宮殿にも摂政であるレイの執務室は用意されている。
滅多に訪れないそこは、華美な装飾は取り除かれ、年代物の机と椅子が窓際に置かれていた。アンティークと呼ぶには歴史が浅く、金銭的な価値はない。だが、重厚で暖か味のある家具がレイのお気に入りだった。
その机にレイはジャケットを投げ置いた。
そのまま、差し出されたタオルを受け取り、無言で髪を拭く。
「殿下――ここが何処か、覚えておいででしょうか?」
冷ややかな声で質問したのは皇太子補佐官のサトウだ。ティナとの情事にストップを掛けた電話の主である。
『殿下、ビーチでキス以上の行為に及ぶおつもりですか?』
携帯を取るなりそんな声が聞こえた。
『適当な島を探すようにご命令下さい。そこに、ミス・メイソンのために宮殿を造り、殿下がお通いになられるのがよろしいでしょう。庶子は嫡出子ご誕生の後にお作り下さい。クリスティーナ嬢を、ミセス・チカコ・サイオンジと同じお立場にする覚悟を持たれてから、それより先にお進み下さい。もちろん、それに相応しい場所で』
それはサトウの怒りを籠めた、痛烈な皮肉であった。