第19話「アサギ島へ」
アサギ島、漢字で浅葱島の名前も付いている。
本島から西へ約百五十キロ、アズウォルドで一番日本に近い島だ。この島に、シン国王が静養する仮王宮・スマルト宮殿が建っていた。
宮殿は別名「花紺青館」と言われ、純日本風の宮殿であった。亡き父王が別れた妻のため、十五年前に五百万ドルもの費用を投じて建築した。当時、国民から大パッシングを受け、テロへの引き金にもなったと言われた、曰くつきの宮殿である。
あの夜、レイがゲストルームを訪れることはなかった。朝まで不適切な状態が続いたとは思えない。
結局、ティナは朝方まで眠り損ね……慌てて起き出した時には九時を回っていた。既に、セラドン宮殿のスタッフは忙しく働いており、レイも公務に向かった後であった。
(どうしてあんなことを言ってしまったの?)
ティナの胸には後悔ばかりが湧き上がる。兄王の妃にと連れて来た女が、弟をベッドに誘ったのだ。高潔な彼には許せないことだろう。
そもそもラインを踏み越えたのはレイのほうが先なのだが……。ティナの頭には拒否されたショックしか浮かばない。
悩みを抱えたまま、ティナは重い足取りで王宮に戻った。……いつアメリカに送り返されるのだろう? そればかりを考えながら。
そして、その日の午後――皇太子の側近を名乗る男性が王宮を訪れる。彼はティナを迎えに来たのだった。
「皇太子補佐官のサトウです。アメリカを発つ前にご挨拶致しましたが、ご記憶いただいておりますでしょうか?」
「ええ……はい。我が家で行われたプリンスの歓迎パーティでも、お見掛け致しました」
「はい。補佐官ですから」
サトウはニコリともせずに答える。アメリカを出発する前より刺々しさが増していた。
彼は、自国の皇太子に膝を折らせたティナを良く思っていない。それが判るだけに、サトウの冷ややかな視線にティナは言葉を失った。
「皇太子殿下のご命令により、あなたをお迎えに上がりました。ご同行をお願い致します」
「レイ……殿下の?」
(ああ、やっぱり強制送還されるんだわ)
ティナは覚悟を決め、荷物を纏め始めた。でも、もう一度だけでいいからレイに会っておきたかった。そんなことを考えながら……。だが、
「ミス・メイソン――荷物は不要です。どうぞ、そのままで」
「この、ままで?」
「はい。ヘリポートに殿下がお待ちです。お急ぎ下さい」
そこは海上の空港ではなく、山頂を切り開き、ヘリの発着のためだけに造成された場所であった。中央に立ったポールにはアズル・ブルーの国旗がはためき、入り口の門柱には王室専用のヘリポートであることが書かれてあった。
ティナはまるで王族の一員であるかのように、警備兵に敬礼で出迎えられる。後になって、彼女の乗りつけた車が皇太子専用車両であったことに気付いた。
ヘリの近くで、レイは待ち構えていた。
ティナと視線が合った瞬間、彼は息を飲んで目を逸らした。それはプリンスらしからぬ態度だ。彼は可能な限り、さりげなさを装い、ティナに手を差し伸べる。
「レイ……皇太子殿下……あの」
「突然呼び立ててすまない。約束通り、君に兄上を紹介したい。一刻も早く、決着をつけるほうがいいような気がしてね」
そこまで言った時、レイはようやく顔を上げ、いつもの笑顔を作った。
公人であるレイは如何なる場合も笑顔を絶やさない。その姿はティナの目に、気高さと冷たさを同時に映した。
だがその時、ティナは知ったのだ。穏やかで優しい……彼女が見惚れた笑顔が、作り物であったことに。昨夜見せた、ティナを燃やし尽くさんばかりの情熱。あれが、レイの真実――素顔なのだ、と。
「あの……どこに行くんですか?」
「アサギ島だ」
ティナの手を引きヘリの中にエスコートしつつ、レイは短く正確に答える。
二人は一定の距離を保ち、会話も極力控えた。その、あまりに他人行儀な振る舞いは、逆に、二人の仲を周囲に邪推させるものとなる。
機内は息苦しく暗雲が立ち込め……ヘリの窓から見える空は、雲ひとつなく晴れ渡っていたのだった。
~☆~☆~☆~
スマルト宮殿は日本の『ゴショ』を思わせる建物だった。
壮大というより、横に広く、荘厳な印象だ。南国にはどこかミスマッチで、そこだけ違う空気が漂っている。
正門から一歩足を踏み入れると、白砂を敷き詰められた枯山水の広大な庭があった。所々に配置された庭石。通路の脇に置かれた灯篭。木立の向こうに見え隠れする東屋。あえて池を造らず砂で表す日本独特の侘び寂が、ティナを異国に迷い込んだような錯覚に陥らせる。
建物の中に通され、ガラス越しに見えた裏庭には、日本から運んで植えられた竹林があった。その余計なものを省いたすっきりとした緑が、清涼な風を生み出すようで……視覚から涼しくなれることを、ティナは知ったのだった。
その後、信じられないほど長い廊下を歩かされ、ティナは応接室に案内された。
見た目とは違い、内装は概ね洋風だ。中に入ってしまえば、窓はテレビ画面のようで……。液晶画面に映し出された異国を見るように、ティナはボンヤリと窓の外を眺めていたのだった。
お茶やコーヒーはお替りが出てくる。だが……ここに来て既に一時間近くが経過していた。レイは着くなり、ティナの元を離れたままだ。誰からも、何の説明も受けてはいない。
レイには望まれたものの、国王は妃を必要としてないのかも知れない。そんな考えがティナの脳裏を過ぎった。
(ひょっとしたら……国王さまには会えないまま、アメリカに帰ることになるのかも知れないわね)
ティナがそんな風に思い、ため息を吐いた直後……ドアが乱暴に開け放たれた。
そして、黒髪の女性がツカツカと入って来たのだった。