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第18話「甘く苦しいキス」


 プールの中は思ったほど冷たくはなかった。ティナは学生時代に泳いだきりで、泳ぎはそれほど得意じゃない。でも、レイに万一のことがあったら……。そう思うと、後先考えず飛び込んでしまったのだ。

 水中は真っ暗だった。宮殿の灯りもここまでは届かないらしい。この中にいる限り、暗くてよく見えない、のは確かだろう。でも、これではレイの姿も見えないではないか。


(誰か……人を呼んで来なくちゃ)

 落ち着きを取り戻し、ティナが冷静な頭で考え始めた時だ。彼女はいきなり、下から伸びてきた“何か”に手首を掴まれた。驚くティナが目を見開いた瞬間――そこにレイがいたのである。

 水中で、深い青色の瞳が見分けられるほどレイは近づき、そのまま……ティナの唇を奪った。


 強く手首を掴まれたまま、彼の片方の手はティナの背中を撫で……気付くと、レイの胸に引き寄せられていた。

 レイのキスは激しさを増し、ティナの唇を割る。

 ゴボッと息が漏れ――レイは唇で覆うとティナが苦しくないように口移しで酸素を送り込んできた。

 二人の脚が絡み合い、直接触れる部分が燃えるように熱くなる。ティナもキスに応えるように、レイの腕を掴み、抱きついたその時だった。

 

 プールの中央が盛り上がり、二人は一気に浮上した。

 水上に顔を出した途端、レイはキスを止める。しかし体は……とくに下半身は、まだお互いを求め合っていた。

 荒い呼吸を繰り返し、ティナはどうにか目を開けてレイを見た。

 彼女より遥かに潜っていたはずなのに、レイの呼吸は全然苦しそうではない。ただ、アズル・ブルーの瞳に苦渋の想いを映し出していた。


「レイ、どうして? ……いったい……」

「すまない。苦しかっただろう」

「そうじゃ……なくて」

「もし、君が私を訴えるなら……」

「そうじゃないわ!」

 ティナは必死で呼吸を整え、言葉にする。

「心配したのよ。このまま浮かんで来なかったらどうしよう、って。すごく心配したわ」

 言葉にすると、あらためて恐怖がこみ上げてきた。ティナの瞳からハラハラと涙が零れ落ちる。

 八年前に泣くだけ泣いて、涙は枯れ果てたと思っていたのに……。レイの身を案じて、彼を想う切なさに、ティナは涙が止まらなくなった。

 

(私――レイに恋をしたんだわ。どうしよう、誰のことも愛さないと思っていたのに。こともあろうに、一国のプリンスに、しかも婚約者のいる男性を好きになるなんて)


 ジッと、ティナは彼の瞳を見つめた。それを受けたレイの瞳にも、熱いものが宿っている。二人の距離はすぐに縮まりそうだ……もう一度、唇を重ねさえすれば。二人の間に存在するわずかな布地など、それを阻むことは出来ないだろう。


 だが――その直後、レイは軽く頭を振り、ティナを抱いたまま端まで泳いだ。そして、プールサイドに彼女を押し上げたのだった。

 

(もう一度キスして欲しい……さっきと同じ、熱いキスを)

 

 ティナはそんな思いを籠めて、レイの腕を掴んだまま離さない。しかし、レイはそんなティナの指を強引に引き剥がしたのだ。

「そこの……ベンチにタオルが掛けてある。それから、応接間の向かいにゲスト用の寝室がある。君はそこのシャワーを使ってくれ」

「あなたは……来ないの?」

「このまま水から上がるには、不適切な姿だからね」

「自分から、不適切な格好になって飛び込んだくせに」

「そうだ。だが、さっきとは状態が違う。とくに一部分が……君も気付いたと思うが」


 レイの指摘にティナは顔を赤らめ俯いた。

 水の中で押し付けられたそれは、ティナの太ももが火傷しそうなほどに熱く、高ぶっていた。思い出すだけでティナの息は荒くなる。

 例え未来がなくとも、レイともっと親密な時間を過ごしたい。だがどうすればレイは願いを叶えてくれるのか……男性を誘惑した経験のないティナには判らない。


「わかったわ。その部屋で、あなたのことを待ってていいかしら? その……不適切なままでも構わないから……来て欲しいの」

 ティナは頬を赤らめ、必死に想いを伝える。そしてタオルを手に、宮殿に向かって駆けて行くのであった。




 これでも、二千キロ四方を海に囲まれた海洋国家のプリンスだ。十五分程度の潜水なら難なくこなせる。多少血が薄まったとはいえ、レイも海の男であった。


 彼はプールに仰向けで浮かび、考えていた。そのほとんどは後悔だったが。

 サトウにはあんな風に答えたが“それだけ”でないのは、最早、明確な事実であった。

 ティナに向かう欲望を抑えるために、プールに飛び込み、熱を冷ますつもりだった。まさかそこに彼女が現れるとは考えてもいない。


『――おかえりなさいませ』


 あの一言は、見事にレイの体に点火した。打ち上げを待つ花火のように、導火線に火が放たれ……どうしても、自分を抑えることが出来なかったのだ。

 水中なら誰にも見られることはないだろう。咄嗟にそんな卑怯な事まで思い付き……実行した。もし、あのまま彼女を抱けるなら、溺れ死んでも悔いはなかったくらいである。

 レイの炎はティナに燃え移り……彼女をその気にさせたのは、間違いなく彼であった。これが新月の夜の気まぐれでなく、恋という形になった時、彼女はアメリカに戻さなければならない。


 レイは胸が苦しくて堪らなかった。二十キロの遠泳をこなした時より辛い。日頃抑え続けている女性に対する欲望――ティナに向かう熱情をレイはそう捉える以外になく。

 これほど熱い想いの呼び名を、彼はまだ、知らなかったのである。





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