音痴の世界
響は驚いて声を潜めた。
「さっきの総管……なんであんな喋り方をするんだ?」
牛魔王は訳が分からないといった顔をしている。
響は自分の喉をつまむ仕草をしてみせる。
「さっき、普通に喋ってたと思ったら、急に喉を絞ったみたいに裏声になっただろ」
牛魔王はやはり分からない顔だ。
「聞き分けられないのか? 声が高くなったり低くなったりしてた」
牛魔王は首を横に振った。
(僕の幻聴なのか、それとも牛族は音程の高低を識別できないのか?)
響は他の奴隷たちのそばへ歩み寄り、人族や羊族にも聞いてみようとした。
すると近くの兵士が怒鳴った。
「誰が勝手に歩き回っていいと言った!」
「おい、お前。名前は何だ?」
響は固まった。
(この世界で、自分は何という名前?)
「聞いてるんだ!」兵士は激昂し、革鞭を抜いて容赦なく振り下ろした。
「無視する気か!」
バシン、
牛魔王が飛び込んできて響をかばい、背中でその一撃を受け止めた。
「すみません、お役人様!」牛魔王は大声で許しを請うた。
「俺が、こいつを呼んだんです!」
その声が突然、甲高く細く裏返った。
巨大な身体には不釣り合いなほどの“裏声”。
兵士は鼻を鳴らした。
「勝手に動くな!」
響は呆然と牛魔王を見つめ、尋ねた。
「……僕の名前、何だ?」
「お前はハイビだ」
「自分の名前も忘れたなら、俺のことも忘れてるだろ。俺は牛ちゃんだ」
響は彼を見つめた。
「どうして僕を庇ってくれたんだ?」
牛ちゃんは大きな口を開けて笑った。
「俺は皮が厚くて頑丈だからな。鞭くらい平気だ」
もともとボロボロだった麻布の服はさらに裂け、背中から肩にかけて深い鞭痕が走り、
そこからじわじわと血がにじみ出ていた。
「全然痛くねぇよ!」
その声はまた甲高く細かった。
響の目が少し潤んだ。
前の世界で、無条件に彼を庇ってくれるのは、母親と『彼女』だけだった。
もう、二人ともいない。
二人は他の奴隷たちと身を寄せ合い、再び座り込んだ。夜が降り、紫の月が空に昇る。
野営地には焚き火のパチパチという音だけが残った。
(この世界では……嘘をつくと、裏声になるのか?)
響は夕食の残りの硬いパンを取り出し、腹を鳴らしている牛ちゃんに差し出した。
「これ食えよ」
牛ちゃんは唾を飲み込みながらも言った。
「俺は……腹減ってねぇ」
――裏声。
響はまた振り返り、震えている羊族の亜人に向き直る。
「なあ、寒くないか?」
羊族は歯をガチガチ鳴らしながら、それでも反射的に言った。
「……さ、寒くない」
――裏声。
その後の二日間の行軍でも、響はさらに様々な「嘘」を“裏声”として耳にした。
「俺は家が恋しくない」
「全然疲れてない!」
「隊長、マジでかっこいいっす!」
響は確信する。
この世界では、種族や身分に関係なく――嘘をつくと誰もが裏声になるのだ。
しかも皆は音痴で、普通の声と裏声の違いを聞き分けられない。
聞き分けられるのは、自分だけ。
だから、響は少し離れた場所にいるモリスを見つめていた。
「ここから領地に戻るまでの道のりは、非常に安全です。」
あれは、とてつもない大嘘だ!




