偽のカルテ
「このクソジジイ、最後の最後まで俺たちをサル扱いしやがって……」
HIBIは海底に沈んでいるかのように、周囲は真っ暗だった。
聞き覚えがあるようで、どこか遠い名前が彼を震わせた。意識が、溺れる者が流木にすがりつくように、ゆっくりと浮かび上がってくる。
――ここは、どこだ?
記憶の欠片がパズルのように噛み合っていく。病院に着いたあと、新しく担当になった主治医がMRIのスキャン画像を指さした。そこには真っ黒な領域が大きく映っていて、それが脳腫瘍で、最近ひどくなった耳鳴りと頭痛の原因だと言う。
「末期です。すぐ手術が必要です」
VIP病室の看護師は彼のファンだと名乗り、興奮を必死に抑え、頬を真っ赤に染めていた。彼女は彼に注射を打ち、優しい声で説明した。「耳鳴りと頭痛の症状を和らげるためのお薬ですよ」
……鎮静剤か?
長くうつ病の薬を飲み、眠れない夜には鎮静剤に頼ることもあった。身体に耐性ができていたのか、彼は思ったより早く“眠り”から意識を取り戻していた。
体は鉛を詰められたみたいに重く、目も開けられない。だがカーテン越しに、確かにその名前が聞こえた。
「増木アーロン。あのクソジジイ。一体どれだけ女を作っていたんだ?」
VIP病室の隅で、主治医が電話をしている。
「増木アーロン」を聞いた瞬間、彼の心臓がぎゅっと縮んだ。
名声は轟いているものの、一度も顔を合わせたことのない実の父親だった。
「そう。間瀬響は間瀬紬の息子だ」
「うん、全部調べた。間瀬紬はあいつが十二のときに死んだ。がんだ」
電話の向こうが何か言ったらしく、主治医は鼻で笑った。
「脳腫瘍だ。悪性かどうか? そんなの関係あるか?」
「強い鎮静を入れてある。明日、すべてのニュースが世に出た後で、あの短命だった母親と、息を引き取ったばかりの『我々の』父親の元へ送ってやりますよ。ハハハハハ……」
笑い声が、病室に響き渡る。
HIBIの本当の名は、間瀬響。
彼は目を固く閉じ、舌を噛みしめて、電話が終わるのを待った。
ドアが開いて閉まり、足音が遠ざかっていく。
彼は必死に体を起こした。残った薬効のせいで、体には力が入らない。
携帯――まず携帯だ。
ベッド、棚、枕の下。どこにもない。
彼は重い足を引きずりながら、隣の診察室へよろめき、スタンドライトを点けた。電話はない。
パソコンの画面まだが点いたままだった。めまいをこらえ、デスクトップにあった目立つカルテのフォルダを開いた。
【間瀬響】
画面に映ったMRIは、さっき見せられたものとまるで違っていた。黒い影はほんのわずかしかない。
がん?末期?
この主治医は――いったい何者なんだ?
「パチン」
診察室の天井の明かりが突然点いた。
響が振り向くと、さっきの若い看護師が立っていた。心配そうな顔で駆け寄り、焦った声で言う。
「どうして起きたんですか? 休まないと……!」
響は真っ青な顔で、手を伸ばした。
「スマホ……あんたのスマホ!」
看護師は少し怯んだように見えたが、白衣のポケットから慌ててスマホを取り出して差し出し、すぐに彼の身体を支える。
「まずベッドに戻りましょう、ね?」
響がスマホを手に取ると、顔認証が失敗した。看護師が急いで言う:「パスコードは0303です!」
ロックが解除された。彼は震える指で110番を押そうとした、その瞬間――
鋭い痛みが走った。
見下ろすと、看護師は注射器を握って、その針は彼の太ももに深々と突き刺さっていた。
視界がぼやけ始める。暗闇に落ちる直前、彼は最後の力を振り絞り、もう一度看護師の顔を見た。
その顔はもう赤らんでもいないし、慌ててもいなかった。代わりにそこにあったのは、氷のように冷たい表情だった。
彼女は「チッ」と舌打ちをして言った。
「ファンごっこ、疲れるわ。」
響は、また海の底へ沈んでいった。




