第六節 『ヘクター・バルグリッド』
日付が変わる頃、アナスタシアは本日の業務を終えた。
朝はバルグリッドファミリーの動向を探り、昼前は都市郊外でファミリーを蹂躙。
昼食後から書類整理を始め、先ほど今週分の仕事を全て片付けた。
迫る決戦に備え、予定を繰り上げたのだ。
「──それでは、お先に失礼します」
視線を上げると、そこには帰りの身支度を済ませたアナスタシアが立っていた。
スーツのジャケットを羽織り、ショルダーバッグが腰の辺りで揺れている。
「今日もお疲れ様。夜道に気を付けて帰ってくれ。日中は派手に喧嘩を売ったみたいだからな」
オレは微笑みながら労いの言葉を掛けた。
「ご忠告ありがとうございます。ですが、あの程度の連中に夜襲を受けたとしても、何も問題ありません。簡単に返り討ちにしてやりますので」
「……なるほど。それは心強いな。じゃあ、また明日な。アナスタシア」
「はい。また明日、お会いしましょう。アダム、様」
彼女は一礼すると、ゆっくりと扉へ向かう。
背中が見えなくなるまで、オレは視線を送り続けた。扉が閉まる音。それと同時に、オフィスに静寂が戻る。
「────」
オレは再び書類に目を落とした。
日を跨ぎ、時計の長針が半周回った頃、扉がゆっくりと開かれた。
カランコロン──扉上部の小鐘が鳴り、武装した強面の男たちが次々と押し入ってきた。
全部で五人。
相当、戦闘慣れしている手練れだ。
「……すまない。今日はもう店仕舞いなんだ。融資依頼なら明日また出直してくれ」
殺意を隠そうともしない連中を順に見渡しながら、オレは何食わぬ顔でそう伝えた。
無論、相手の意図など承知の上だ。
それでも、あえて。
そうした。
「残念だが、客じゃねえ。ボスがテメェを連れて来いってよ。抵抗しなきゃ痛い目は見ねえ。大人しくついて来な」
髭面の大男が鋭い眼光を向け、ドスの効いた声で言い放つ。
その背後では、仲間たちが武器に手をかけている。剣の柄、斧の持ち手、槍の長柄。いつでも交戦できる体勢だ。
「随分と優しいな」
オレは小さく笑った。
「君らの目的はこの都市の港湾利権だろう。今オレを殺せば、簡単に手に入るぞ?」
髭面の大男は一瞬、表情を強張らせた。
だが、すぐに不敵な笑みを浮かべる。
「おいおい、随分と命知らずじゃねえか。だが悪いな、俺らはボスの命令に従うだけだ」
男は一歩、足を踏み出す。
「テメェを生かして連れて来いってのが命令なんだよ。まあ、少しくらい痛めつけても構わねえとは言われてるがな」
周囲の男たちは下卑た笑みを浮かべながら、一歩、また一歩と包囲を狭めていく。
「それにテメェを殺したところで、港湾利権なんざ手に入らねえ。死後、その利権は政府に移るだけだ。それじゃあボスの望みは叶わねえ」
男は一呼吸置いた。
「だからテメェをボスの前に連れて行って、権利を全て譲渡してもらう。もちろん、この金融の経営権もな」
「そうか……」
オレは静かに目を閉じた。
暗い視界に微かに透ける燭台のオレンジ色。
その揺らめきの中で、オレは深く息を吐き、そして覚悟を決める。
「……承知した。君らに従おう」
言い終えると同時にオレは席を立つ。
すると、リーダーと思しき髭面の大男が近づいてきて、手枷をオレに見せつけた。
指示は何もない。
だが、オレはすぐさまその意図を察して、背中を向けて両手を腰の後ろに揃えて置いた。
「この手枷は魔封石で出来ている。魔力障壁も張れない今のテメェは、ただの赤子と同じだ。楽に死にてえなら、せいぜい身の程を弁えることだな」
手枷を嵌め、拘束が完了したことを確認すると、男はバシンとオレの背中を強く叩いた。
うっ、と呻くオレを見て、周囲の男たちはケラケラゲラゲラと嘲笑っていた。
そして、彼らと共に店を出ると、そこには一台の幌馬車があった。
荷台に乗り込むよう指示され、大人しく従った。
その直後──。
「──うぐっ!」
麻袋が頭に被せられ、縄で首を締められる。
両手を拘束されていたオレは背中を蹴られ、顔面から荷台に叩きつけられた。
「おいおい! さっきまでの威勢はどうした? 何か言ってみろよ!」
「何ぃ? まだ足りねえってか? 心配すんな、目的地に着くまで、たっぷり地獄を味わわせてやるよ!」
「でもまずはお客様をもてなさねぇとな。喉乾いただろ?」
ゴトリ、と重い物が置かれる音。
ちゃぷん、ちゃぷん、と水が跳ねる。
「くくく、俺らは親切だからよ。ほら、水だ。残さず飲め!」
言い終えると同時に、オレの顔が桶に沈められた。
「んぶぅ~~~~~っ!!」
息苦しい。
肺から空気が強制的に吐き出される。
「ごぼぉ! ごぶぅ! ごぼぽぽぼぼぼぼっ!!」
開いた口から大量の水が流れ込む。
気管に入り込んだ水に、反射的にむせ返る。
空気と共に吐き出すも、休む間もなく再び水が押し寄せる。
「だはははははは〜っ!!!!」
それでも男たちの下卑た嗤いは、水の中でも鮮明に聞こえていた。
◆ ◆ ◆ ◆ ◆
「────っ!!」
腹部に強烈な衝撃が走った。
深い暗がりに沈んでいた意識が、急激に浮上する。
ゆっくりと瞼を開く。
視界が霞み、聴覚がくぐもる。
まだ水の中にいるような息苦しさが残っていた。
鈍い思考の中で、オレは今の状況を確認した。
両腕は天井から垂れる鎖で繋がれている。
灰色のベストと黒のワイシャツは、水と土で汚れきっていた。
両足は靴を脱がされ、裸足のまま宙に浮いている。
爪先が床に辛うじて届くか届かないかの高さだ。
周囲には大勢の犯罪者たちが武装し、オレをまるで見せ物のように眺めて嗤っている。
男女合わせてざっと百人弱。
この都市にいるファミリーの全戦力が、この場に集っているのだろう。
ここは──港湾地区の倉庫街、か?
鋼鉄製の広い空間だった。
天井は高く、天井付近の小窓から月明かりが微かに差し込んでいる。
まさか決戦場が因縁の地になんて……。
皮肉なものだ。
「──目が覚めたか? クソ野郎」
声が響く。
目の前には拳を握りしめた大男が立っている。
だが、声はその背後から聞こえていた。
髭面の大男が半歩横に逸れる。
開けた視界の先。そこには鉄製の椅子に腰掛けて、優雅に脚を組み、葉巻を燻らせる男がいた。
「実際に会うのは今日が初めてだな。初めまして、金融街の隠れ陰キャ野郎──アダム。オレ様はヘクター・バルグリッド。世間では麻薬王と呼ばれている」
ヘクターの容姿は、その名に恥じぬ自己顕示欲の塊だった。
日に焼けた色黒の肌、オールバックに纏められた黒のドレッドヘア。
筋肉質の体躯は、金銀宝石がふんだんに散りばめられた豪奢なファーコートの上からでも分かるほどだ。
特に、露出している首周りの筋肉を見れば、その鍛え抜かれた肉体が一目瞭然だった。
エラの張った顎周りは綺麗に剃られている。
金縁のサングラスの奥からは、血に飢えた猛獣のような鋭い双眸がギラリと覗いていた。
「──王だ! 分かるか? 世界中の国々の王と同じ、王なんだよオレ様は!」
彼はおもむろに立ち上がると、ゆっくりとオレのもとへ歩み寄る。
そして、五つの指輪を嵌めた巌のような拳を、オレの顔の前に掲げた。
「麻薬界の頂点に君臨しているオレ様に楯突いたんだよテメェは!」
一撃。鳩尾に拳が食い込む。
「──ごふっ!?」
びちゃびちゃ、と口から半透明の液体が溢れ出る。
血と胃酸が混じった大量の水。道中の水責めで、無理やり飲まされた水だ。
「金貸し以外に──能のねえ──ゴミクズが! この、オレ様を──舐め腐りやがって!」
一言ごとに拳が飛んでくる。
まるでサンドバッグのように、ヘクターはオレを容赦なく殴り続けた。
「──はぁ、はぁ、はぁ……ふぅ」
ヘクターが息を整える。
「どうだ、思い知ったか! このオレ様に歯向かうことが、どういうことかを!」
力なく項垂れるオレの顎をガシッと鷲掴み、鼻先が触れ合うほどの距離で凄む。
「──ふっ!」
オレは無意識に笑っていた。
彼のやり口は暴力で屈服させ、恐怖で支配する。自己顕示欲を満たすためだけの単純なもの。
麻薬王という肩書きの割には、あまりにも幼稚だった。
「麻薬王なら……麻薬王らしく……ご自慢の薬で苦しめたらどうだ……。今の君は……ただのガキ大将だ……」
その言葉に、ヘクターの表情が凍りついた。
周囲の男たちも、一瞬息を呑む。
「テメェ……もう一度言ってみろ」
低く、押し殺した声。その奥には抑えきれない怒りが渦巻いていた。
「何度でも……言ってやる……」
オレは血に濡れた唇で、笑みを作った。
「君は所詮……麻薬王と名乗る資格もない……ただの……小物だ」
瞬間、拳が顔面に叩き込まれた。
視界が白く弾け、耳鳴りが響く。
「黙れ! 黙れ黙れ黙れ!!」
次々と拳が飛んでくる。腹、顔、脇腹。容赦なく殴られ続けた。
「──ボス、そろそろ!」
髭面の大男が制止に入るも、ヘクターは聞く耳を持たない。
「うるせえ!」
さらに拳が打ち込まれる。
意識が暗闇に沈もうとしたその時──。
「──ボス! 契約が先です! 生きた状態で署名させなければ、魔力契約は成立しません!」
鋭い制止の声に、ヘクターの手が止まった。
「──ちっ!」
舌打ちと共に、血に染まった拳を開いては握り直す。
殴る素振りを見せるも、結局は拳を下ろした。
理性が感情を上回ったようだ。
何とか溜飲を下げたヘクターは、部下に目を向ける。
「……分かってる。おい、契約書を持ってこい」
「ど、どうぞ」
部下が革鞄から書類を取り出し、差し出した。
ヘクターはそれを乱暴に掴み、オレの顔の前に突きつける。
「見ろ。テメェの港湾利権と金融の経営権を、オレ様に全て譲渡してもらう。無条件でな」
霞む視界の中、書類の文字を追う。
それは契約とは名ばかりの、一方的な無条件降伏の要求だった。
「さあ、サインを──って思ったが、その状態じゃあサインは無理か」
オレの両手は手枷と鎖で拘束されている。
そんな状態で、契約書にサインなど出来るはずがなかった。
「仕方ねえ……」
ヘクターは部下から短剣を受け取る。
オレの喉元に刃を当て、不敵な笑みで舌なめずりをした。
「テメェの生き血で代用するとしよう」
冷たい金属の感触が首筋に這う。
刹那、鋭い痛みが走り、生温かい血が首筋を伝った。
「────っ!」
短剣に滴る鮮血を、部下の持つ契約書のサイン欄に一滴垂らす。
ポタリと落ちた血の雫は、まるでスライムのようにウネウネと動き、その者の魂に刻まれた真名を浮かび上がらせた。
──稲荷坂いろは。
しかしそこに刻まれた名は、アダムのものではなかった。
「これはどういうことだ……?」
困惑するヘクター。
部下も首を横に振る。
髭面の大男が近寄り、書類に刻まれた名を見て、オレを凝視した。
「稲荷坂……まさか、安土の妖狐族か!」
「くふ、くふふふふふ!」
堪えきれず、笑いが漏れる。
「あははははは! せやせや、その通りや!」
そして、魔法が解ける。
桜色の煙が全身から溢れ出し、瞬く間に全身を包み込む。その中から、白銀の尾を揺らす化け狐が姿を現した。
「ほんまにおもろかったで~。あんたらの勝ち誇った顔に、うちを痛めつけてる時の愉しそうな顔……」
煌びやかな安土織物を身に纏う九尾の化け狐は、驚きで開いた口が塞がらない面々に、愉悦に満ちた蔑みを向けた。
「やられ芝居してるっちゅうのに、笑うてしまいそうやったわ~」
ツバキの身体は、見る見るうちに傷が癒えていく。
「そ、そんな……馬鹿な……! アレは魔封石で出来た手枷だぞ!? 何故、回復魔法が使えるんだ……ッ!!」
髭面の大男が狼狽する。
だが、その答えはすぐにツバキ本人の口から返ってきた。
「妖は魔法を使わへん。うちらが使うんは妖術──あんたらの使う魔法とは少しばかし、ちゃうものやさかい」
ものの序でに、ツバキは両手の手枷を外した。まるで手品のように。初めから拘束など無かったかのように。
素足のまま地に降り立ったツバキを見たヘクターは、危機感と焦燥に駆られ、この場の全員に叫んだ。
「こ、殺せっ!! 今すぐこの女狐を殺せぇ──ッ!!」
誰もが武器を構え、ツバキに突貫する。いや、しようとした。
その刹那──、
「──ぐわぁあああああああああああッ!!!!」
倉庫の巨大な門扉が勢い良く爆ぜた。
飛散した鉄片や瓦礫が経路上にいた者たちの肉体を鎧ごと貫き、倉庫内に大輪の血肉の花を咲かせた。
「い、一体、何が……ッ!!」
ヘクターはツバキの後方──ポッカリと大きく開いた倉庫の入口を視界に捉え、そして言葉を失った。
そこには、黒いパンツスーツ姿の長身女性と──、
「──やあ、ヘクター! 俺の用意した夢物語はどうだったかな? 存分に愉しんでもらえただろうか?」
不敵に笑う、俺がいた。
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