第9話 絶望の一撃
家の外から悲鳴が聞こえた。体が強張る。嫌な予感がした。こんな夜中に一体何が起こったのか。
ベッドから身を起こそうとした瞬間、家の扉がバンっと勢いよく開かれる。
「魔物が出ました!」
魔物。その言葉は、この世界に来た瞬間から認識していた。不浄の力が具現化した存在で、人々を襲う存在。勇者達が戦う理由も、魔物たちから人々を護るためだ。だが、俺はまだ一度たりともその姿を見たことがなかった。どこかで、勝手に“存在しないもの”だと決めつけて、避けていたのかもしれない。
「勇者様お願いします!」
お願いしますって言われても、どうすりゃいいんだよ。
ともかく村人に促されるまま、とっさに扱えない剣を手に取って外に出る。俺に一体、何ができるんだ? ここまで鍛錬を重ねて、ステータスは確かに上げてきた。
だが、今の自分のステータスが魔物に対してどれだけ対抗できるのかは、まったくの未知だった。少なくともまだ平均的な成人男性のステには届いてないのは確実なんだ。俺一人でどうこう出来るとは思えない。せっかく覚えた正拳突きだって、まだ動くものに当てた事はない。
外へ出ると、夜の冷気が肌を刺した。空は月明かりもなく暗く沈み、村全体が不気味な静けさに包まれていた。耳を澄ませば、かすかに誰かの嗚咽や足音が聞こえる。人々の気配はあるのに、声がない。まるで息を潜めて、何かをやり過ごそうとしているかのようだった。
足元に視線を落とせば、地面に落ちた桶や壊れた松明。逃げる時に投げ出したのだろう。あちこちに、緊急の痕跡が残っている。
心臓が、ドクン、と強く脈打った。そのときだった。
──ずしん。
まるで地の底から響くような重低音。微かに足元が揺れる。もう一度、ずしん──と。恐る恐る顔を上げた俺の視界の先に、それはいた。
村の中心を通る道の真ん中に、闇の中で膨れ上がった影が立っていた。人の背丈の倍以上、3メートルはあるだろうか。毛むくじゃらの黒い体に、血のこびりついた角。
視界に収めた瞬間、勝手にウィンドウが立ち上がり、魔物の名前が表示される。
《出現魔物データ》
──────
■ 名称:ミノタウロス
■ レベル:30
■ 等級:A
■ 状態:警戒中
※ステータス詳細は対象強度のためロックされています。
──────
魔物の状態はある程度こちらにわかるのか……。勇者の特権か?
だが、ステータスは???と表示されており、何も分からないのも同然だ。ただ、レベル30という数字だけで“ヤバさ”は伝わってきた。レベル1の村人が戦っていい相手じゃない。
なにより──あの3メートルを超える巨体と、盛り上がった筋肉。その姿は、視覚だけで本能を揺さぶり、全身の細胞が“逃げろ”と警鐘を鳴らしていた。
俺達はこんなものと戦わされそうになっているのか? 改めて異世界に来たという現実が目の前に突きつけられる。
俺が現れたのを見て、村人は「勇者様だ!」「勇者様が駆けつけてくれたぞ!」と声を上げた。男たちがそれぞれ武器を手に、ミノタウロスを囲んでいる。だが、構えた手は震えている。
みんな怖いんだ。そりゃそうだ。あんなのに立ち向かえるやつなんて、いない。俺だって、怖い。
「あれはミノタウロスです! Aランクの冒険者でも苦戦する相手です! 勇者様、どうか……」
“どうか”じゃ、ねぇよ。と叫びたかった。けど──頼るやつは、他にはいない。
俺が、やるのか?
やれるのか……?
震える指で、ステータス画面を開く。急に強くなったりはしていない。HP110──これは、あの巨体の拳を一撃でも受けて、耐えられる数値なのか?
過去に10ダメージくらいの軽傷はあった。だが、あんな“塊”に殴られたときのダメージが、そんな程度で済むとは思えなかった。
剣を握った手が、ガタガタと震える。
……俺、無理じゃね? これ、死ぬんじゃね?
そのとき。
カラン──ッ。
震えた手から、剣が滑り落ちた。乾いた金属音が広場に響き渡り、静寂を切り裂く。ふざけんな……俺の“適正F”が、こんなとこで発動すんのかよ……
その音に、ミノタウロスのギョロリとした瞳がこちらを捉えた。肌が粟立ち、背筋が凍る。まるで全身を縛られるような恐怖が襲いかかる。
直後、怒号のような咆哮を上げながら突進してくる。
「う、うわああああ!!」
全身の筋肉が硬直する。逃げなきゃ──そう思っても、足が地面に縫いつけられたように動かない。鼓動が耳を打ち、目の前の巨体が一歩ずつ迫ってくる度に、息が詰まりそうになる。
あいつは止まらない。巨大な蹄が地面を砕きながら、一直線にこちらへ向かってくる。まるで大岩が転がってくるかのような、抗いようのない迫力。
「勇者様っ!」
誰かが叫んだ気がした。
うねるような巨腕が、怒りをまとって振りかぶられる。
「──っ!」
反射的に腕を顔にかざした瞬間、
ドゴォッ!!
腹部に、絶望的なまでの衝撃が走った。内臓が潰れるかと思うほどの重圧。空気が抜けるように喉から息が漏れた。
俺の体は宙を舞い、なす術もなく空中で回転しながら、後方の民家の壁に激突する。
ゴガァン!と爆音が響き、木片と瓦礫が四方に飛び散った。背中が砕けた壁を打ち抜き、土間に崩れ落ちる。瓦礫が容赦なく降り注ぎ、全身が軋む。
口の中に血の味が広がり、視界がぐらぐらと揺れる。耳鳴りがして、遠くで誰かの悲鳴が聞こえた気がした。
あ……やっぱ、無理だ。俺……死ぬのか……。
力が抜けていく。遠ざかる意識の中、空の一点がぼんやりと滲んで見えた。
意識が、ゆっくりと遠ざかっていった。
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