第36話 ダンジョン突入
ダンジョンの入口に立った瞬間、ひやりとした空気が肌を撫でた。地上とは明らかに違う、湿り気を帯びた空間。足元には苔のようなものが広がっており、天井からはかすかに水滴が垂れている。
ほんの少し、濁ったような匂いが鼻を掠めたかと思えば、すぐに別の、鉄のような匂いが混じってくる。まるでこの空間全体が、生き物のように呼吸しているかのようだった。
「ここが……ダンジョンの内部」
隣でフィーナが小さく呟いた。その声も、石壁に吸い込まれるように反響して消えていった。光の届かない奥の暗がりが、不気味な静けさを伴って俺たちを出迎えている。
俺は鞄から地図を取り出し、マッピング機能を起動させた。地図には現在地と、既に踏破されたエリアが明るく表示されている。ライナー達が残してくれた情報のおかげで、無駄な遠回りは避けられそうだ。
周囲を見渡すと、通路は3方向に分かれていた。俺たちの進むべきは、そのうち東側の通路。
「このルートで行けば、リョウタ達に追いつける。慎重に、でも急いで行こう」
フィーナが覗き込みながら言う。
「地図って、ほんとに便利ですね。……なんだか、ちょっとした冒険みたい」
その笑顔に、思わずこちらも口元が緩む。
「そうだな。でも、冒険ってやつは、油断したら命を落とすものだ。気を引き締めていこう」
そう口にした俺は、精神を集中させながら一歩を踏み出した。
足元の石畳は予想以上に滑りやすく、湿った苔が張り付いている場所もある。フィーナが足を取られそうになるのを見て、俺は自然と手を差し伸べた。彼女もすぐに気づき、照れくさそうに笑って小さく礼を言う。
先に進めば進むほど、空気がより冷たく、重くなっていくのを感じた。この先に何が待ち受けているのか──その不安と期待が、俺の胸を強く打つ。
それでも、俺は確かに感じていた。このダンジョンを、必ず突破できるという確信を。
* * *
最初に現れたのは、ネズミ型の小型魔物だった。敵の情報がウィンドウに表示される。ダンジョンラット──1匹1匹はそれほど強そうには見えない。だが、囲まれでもしたら厄介だな。素早く数を減らしていこう。
ダンジョンラットは壁際の影から一斉に姿を現し、こちらへ一直線に跳ねてくる。
「……出るぞ、フィーナ」
「はいっ!」
堰を切ったようにダンジョンラットが突っ込んできた。俺は右拳に魔力を集中させ、《気導崩拳》を放つ。このスキルであれば筋力が大幅に低下した俺でも威力が出せる。
拳が命中した瞬間、骨の砕ける鈍い音が響き、ネズミの体が反動で宙を舞って壁に叩きつけられた。
「次!」
背後から迫っていた別の個体に向けて、今度は《心撃》を放つ。精神力を一点に収束させた鋭い一撃が、相手の鎧のような毛皮を貫通し、内部から動きを止める。ダンジョンラットは体をびくりと反応させて動かなくなった。どっちもいけそうだな。
「アイスランス!」
今度はフィーナの声とともに、凍てつく空気が渦巻き、鋭い氷の槍が生成される。放たれた氷槍が一直線に飛び、跳躍していた魔物の急所を正確に射抜いた。ネズミの体は空中で固まり、床に落ちると同時に砕け散るように崩れた。
さらに2体目、3体目と連続して魔物が現れたが、俺とフィーナの連携は乱れなかった。俺が動きを止め、フィーナがとどめを刺す。逆に、フィーナが魔物の注意を引いた隙に、俺が背後から仕留める。
戦闘が終わった頃には、俺たちの周囲には動かなくなった魔物の残骸がいくつも転がっていた。床には細かな氷の粒が散らばり、壁には魔力の衝撃で刻まれた焦げ跡が残っていた。
「……凄いな、フィーナ。回復専門だと思ってたけど、攻撃魔法もこんなに使えるなんて」
「ありがとうございます。でも、アヤトさんの方こそ……すごかったです。あの拳、一撃で……」
照れくさそうに笑う彼女を見て、俺も頷く。その表情には、少しの誇らしさと自信が滲んでいた。
「この調子なら、どんどん先に進めそうだ。まだまだ、ここは入り口にすぎないからな」
小さく息を整えながら、俺は次の戦いに備えて拳を握り直した。
* * *
2層、3層と進むにつれ、地形に変化が出てきた。最初の層に比べ、明らかに構造が複雑化してきている。
坂道や段差、枝分かれしたルート、水場など、単純な直線構造ではない。地面には湿気が増し、水たまりが点在して足元を滑らせそうになる箇所もある。壁の一部には古びた碑文のようなものが刻まれていて、まるでここがかつて何かの遺跡だったことを示しているかのようだった。
「どういう原理で出来てるんだ、これ」
壁に刻まれた碑文に手を触れながらつぶやく。ダンジョンの奥地にはダンジョンのコアとなる魔物がいるという。だが、魔物がこんなものを作れるとは思えない。しかも、出来たばかりのダンジョンというには真新しいという雰囲気はどこにもない。
「まぁ、気にしても仕方ないか……」
今は地図を頼りに前に進むしかない。余計な時間を費やせばリョウタ達が先にダンジョンを攻略してしまうかもしれないからな。
通路を曲がったところで、俺は違和感を感じて足を止めた。
「前方に、何体か……魔物の気配がする」
俺は《気配察知》のスキルで気配を読み取り、フィーナに伝える。気配は四つ。動きの鈍い個体と、やや素早い反応を見せる個体が混ざっている。
「群れですね……どうしましょう。迂回しますかか?」
「ああ、そうだな。まだ先は長いから、体力は温存しておいた方がいいよな」
新しく習得したスキルのうち心撃以外の攻撃スキルはMPを消費する。気導崩拳は1回あたり10~20程度のMPを消費し、MPの消費量によっても威力があがるようだ。今の俺が使える回数は単純計算で50発程度。出し渋るほどではないかもしれないが、調子に乗って連発するほど余裕があるわけでもない。
「隣の通路をたどればそう遠回りをしなくても最短ルートに合流できそうだ。そっちから回ろう」
進路を変更し、魔物との無駄な交戦を回避する。視線の端に見える薄暗い通路へと入り、音を立てないよう慎重に歩を進める。効率よく、そして慎重に。
通路の天井はやや低く、頭を軽く下げるような形で進む必要があったが、進んでみると視界の先には再び開けた通路が見えてきた。
「……アヤトさんが静かに構えてると、なんだか頼もしく見えます」
「そうか?」
「前より……雰囲気が変わりました。戦い方も、すごく落ち着いてて」
その言葉に、少しだけ胸が温かくなる。自分の中で、確かな変化が積み重なってきているのを実感する。
しばらく進むと、壁際に何かが引っかかるような違和感を覚えた。注意深く観察すると、石壁の一部がわずかにへこんでおり、空気の流れが異なる。
「……ここ、何かある」
俺がそっと手をかざすと、壁の一部がカチリと音を立てて開き、隠し部屋が現れた。マップには載っていない空間だ。
「こんな仕掛けもあるのか」
内部は薄暗く、長く使われていないことを感じさせる埃の匂いが漂っている。その床にはいくつもの足跡が残されており、使いかけの松明が転がっていた。
「……誰か、先に入った跡があるな」
その一帯の地面の表層だけが足跡で削られ表面の質感が異なっている。その足跡の大きさや数から察するに、4、5人のパーティか。もしかしたらリョウタ達のものか?
「まだ、それほど先に行ってるわけじゃなさそうだな」
俺たちは部屋の内部を一通り確認し、石の上に腰を下ろした。
「今日はここで休んでから、先に進もう。フィーナ、疲れてないか?」
「私は全然平気です! でも、ここの小部屋は魔物も入ってこないでしょうし、休むにはいい場所ですね」
ダンジョン内部は思っていたよりずっと広い。くまなく探索していたら1日や2日では到底回りきれない。地図に刻まれたルートのおかげで3層途中まで1日でやってこれた。この調子でいけば8層まではあと3日もあれば辿り着けそうだ。
「ライナー達に感謝しないとな」