第11話 逆境
拳を握りしめて立ち上がる。顔に垂れる血を腕で拭う。手の中にぬるりと血の感触が広がった。
立ち上がった俺を見て、村人たちがざわつく。悲鳴をこらえて小さく「勇者様……」と声がこぼれるのが聞こえた。
対照的にミノタウロスは、一撃で俺を仕留められなかったことが悔しいのか、雄たけびを上げて怒りを爆発させていた。その双眸には、理性のかけらもなかった。息を吐くたびに、鼻孔から湯気のような蒸気が噴き出す。大地を踏みしめた足元にはひびが走り、爪の生えた拳が何度も虚空を打ち鳴らしていた。
周囲を囲む村人たちはその威圧感に恐怖にすくんでいた。
だが──俺にはもう、恐怖はなかった。全身が悲鳴を上げている。それでも、不思議と足は前に出た。
まるで、何かに背中を押されているかのように。
ミノタウロスと視線がぶつかる。ぎょろりと血走る眼球が俺を捉えている。鋭く研がれた殺気と、むき出しの闘志が空気を切り裂いた。
一歩前に踏み出す。拳を固め、その瞬間をイメージする。
ただ、目の前のあいつをぶっ飛ばす。それだけが頭の中にあった。
──ギィィィンッ!!
耳鳴りのような金属音とともに、全身を焼き尽くすような熱が迸る。
ウィンドウが、まばゆい金赤の残光を撒き散らしながら、目の前に展開された。
《極限状態を確認──》
《スキル《逆境》を習得しました》
《効果:HPの残量に応じて攻撃力が増大。現在倍率──×100》
頭の中が真っ白になる。熱が胸にこみ上げ、全身が燃えるようだった。
「……行くぞ」
俺は一直線にミノタウロスに突っ込んでいった。武器なんていらない。この拳だけあれば戦える。全神経が、皮膚の一枚一枚にまで張り詰めていた。ミノタウロスの筋肉が収縮する音すら、鼓膜の奥で聞こえた気がした。
この一撃で、すべてを終わらせる。ミノタウロスはこちらの動きに合わせて咆哮を上げながら突撃してくる。
お互いが交錯するまでの間はほんの一瞬。その一瞬が引き伸ばされ、すべてがスローモーションになったような感覚に陥る。
眼の前で振り下ろされる拳を見て、俺は体を沈め、地をすべるように前にでる。拳がこめかみの横を掠めて風を裂いた。
――今だ。
足を踏み込む。懐へ。
意識の中で、イメージの中で作り上げた正拳突きの動作が再生される。
脇を締め、腰を回し、拳を突き出す。
今の俺の体の中に残るすべての力が一点に集約される。
「死んでたまるかああああああ!!」
渾身の正拳突きが、ミノタウロスの腹に炸裂した。
ドゴォォォンッ!!
骨の砕ける鈍い音と共に、衝撃波が広がる。周囲の空気が震え、地面が一瞬沈んだように揺れた。巨体が空を舞い、村の端の石壁ごと吹き飛ばされる。
風穴の空いた腹部から、黒い血が大量に噴き出し、周囲に鉄と獣の混じった生臭い匂いが広がる。
音が、消えた。
あれほど喧しかった怒号も、悲鳴も、耳には届かない。
残ったのは、拳に残る微かな手応えと、空気の震えだけだった。
やってやったぜ──ざまーみろ。俺の勝ちだ。
張り詰めていたものが、音を立ててほどけていくような感覚だった。
これで……少しは、役に立てたかな……?
一気に力が抜け、膝から崩れ落ちる。
もう何も考えられねぇ……。
体を支えることできず、そのまま地面に倒れ込んだ。遠くで村人の驚きと歓声の声が上がり、こちらに走りよってくるのが見える。
感じたことのない満足感と急激な疲労の中、そのまま意識は深い闇へと沈んでいった。
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