家にいる人
「かんぱーい!」
「おー」
とある一軒家の居間。天井に向かって掲げたグラスに入ったビールを一気に飲み干していく二人。縁側を通って、開けっ放しの窓から心地よい風が流れ込み、蚊取り線香がほのかに香る。「家を買ったから、都合のいい日に遊びに来いよ」と誘われ、この夜、彼は手土産にビールを持ってやってきたのだった。
「ははは! どうだ? 中古にしては、いい家だろう?」友人が彼に訊ねた。
「ははは、何回聞くんだよ。はいはい、いい家だよ。広くて昔ながらの感じで、まあ、サザエさんの家みたいだけどな」
「いいじゃないか。国民的な一家だろ?」
「まあな。でも大丈夫か? 結婚する予定もないのに、一軒家なんて買っちゃって。しかも坂の上だしな」
「いや、こう見えて意外と通勤が楽なんだよ。前に住んでいたアパートよりもちょっと遠くなったけど、電車は座れるし、それに今安いって話だったしな。今後の二十年、三十年の通勤を考えると、買うしかないなって思ってさ。ははは!」
「へぇー、おれは今の会社にずっといるつもりはないからなぁ。おれにはない考え方だ」
「あ、お前あれを目指しているんだもんな。なんだっけ……えっと、炎がどうとか、ああ、火だるまだ」
「全然違うわ。FIREだよ。早期退職して投資で生きていくんだよ」
「それそれ、いやぁ、そっちこそ俺にはない考え方だなぁ。でも、こうした価値観が違う友人がいるのっていいのかもな」
「まあ、おれもそこまで本気で考えてないけどな。……それよりさ」
「ん? 何?」
「さっきから気になってたんだけど、あの人、誰……?」
彼は相手に聞こえないよう声を潜め、縁側にいる男を指さした。その男は彼がこの家に来たときからずっと縁側に座っているにもかかわらず、これまで友人から何も説明がなかったのだ。
「あの人?」
「あの縁側にいる人だよ」
「ああ、縁側にいる人だよ」
「……いや、だから誰?」
「縁側にいる人だよ」
「え、お前って、ゲームのNPCなのか?」
「はあ? どういうこと?」
「同じこと繰り返してないで、説明しろって言ってんだよ」
「だから、縁側にいる人だってば。この家を買ったら付いてきたんだよ」
「付いてきた!?」
「そうそう、でさ、そのFIREってのは具体的にはどうすれば――」
「いやいやいや、は? お前の知り合いじゃないの? おれ、さっき『お邪魔してます』なんて言っちゃったよ」
「ああ、全然知らない人だよ」
「知らない人って、は? え、不法侵入ってこと?」
「まあ、そうなるのかなぁ」
「えぇ……怖ぇよ」
「でもほら、見てみろよ。着物を着て、結構歳もいってて、景色にマッチしてるだろ? うんうん」
「そうだけど、そんな備え付けみたいな感じで……。いや、そもそも、マッチしちゃ駄目だろ。赤の他人なんだから。お前の場所だろうが」
「いやぁ、俺なんてまだまだだよ! あの貫禄は出せないって! はははははは!」
「お前のその感覚はわからねえけど……ああ、ちょっと洗面所借りるな。顔洗ってくるわ。変な酔い方したかも」
「おう、お大事になぁ」
「ちょ! ちょっと! おいおいおい!」
「おお、おかえり。早いな。どした?」
「いた! 風呂場に変なおっさんがいた――うおっ、誰だそれ!」
洗面所に行き、水道の蛇口を捻ろうとした瞬間、彼はふと視線を感じ、辺りを見回した。すると、風呂場のドアの隙間から、中に男がいるのが見えた。彼は慌てて居間に戻った。しかし、居間には知らない中年の男がいて、彼は危うく腰を抜かしそうになった。その男は、先ほど彼が座っていた場所の隣に座り、テレビを眺めながら晩酌をしていた。
「風呂場? ああ、風呂に入ってる人のことか。ははは、様になってただろ?」
「その様になっているってのが、わからねえんだよ……」
「頭にタオル乗せてさ、ちょっと太ってて禿げてもいて、あの風呂場に絶妙にマッチしてただろ?」
「それで、その人もか……」
「ああ、テレビを見ながら――」
「晩酌する人か。いや、もういい。はぁ……」
「おい、どうしたんだよ。まさか、帰るつもりか?」
「ああ、なんか疲れたよ」
「待てよ」
「なんだよ」
「……俺も本当は怖い」
「はぁ?」
「なあ、どうしたらいいと思う? もう怖くてたまらないんだよ。夜に一人のときとかさぁ」
「そんなの、自分でどうにかしろよ。あ、お前、それでおれを呼んだのかよ」
「なあ、頼むよ。帰らないでくれよぉ」
「引っ張るなよ! 警察に任せればいいだろ」
彼はテレビを見ながら晩酌する人を見下ろした。
たぶん、警察は動いてくれないだろう。しかし、見れば見るほどこの部屋とマッチしている。まるでパンフレットのモデルみたいだ。いや、この男にそんな華やかさはないが、と彼は思った。
「そういうやつじゃないって、お前もわかってるだろ?」
「ああ、幽霊的なものだよな? いや、怖ぇよ、ほんとに。こういうの苦手ってわけじゃないけど、こんなにはっきりと見えると、なんか気分が悪くなってくるな」
「なあ、頼む。一晩泊ってってくれよぉ」
「嫌だよ。なんでいろんな人がいる家に泊まらなきゃならないんだよ」
「俺が普段使ってる布団貸してやるからさ」
「だから嫌だよ。なんでそれがアピールポイントになると思ったんだよ」
「でも、その布団には女が付いてくるぞ」
「だから怖いって……女?」
「そう、布団にいる女」
「いや、いやいやいや……」
「美人だぞ」
「……一晩だけだぞ」
彼は二晩も三晩もムフフに過ごした。やがて、彼が飽きたのを察したのか友人は他にもう二人、共通の友人を呼び寄せ、マージャンで彼を引き留めた。
そして、それは今も続いている。