7話 婚約者様は知らない事が多い
『ハノン・イグナス様はご乱心された』
そんな噂が学園中へ飛び交うのに一日もいらなかった。
リエルタとのひと騒動の後、すぐに午後の予鈴が鳴り響いたので私は簡単にお礼を告げてハノン様と別れた。
そして夕刻までの午後の授業が終わる頃には、その噂はあちこちで広まっていたのである。
全く、その間はほとんど授業だったはずなのにどうしてこんなにも噂話って広まるのが早いのかしら。
「ね、ねえファル……あれって」
親友のスフィアが教室の片隅を指差すとそこには満面の笑みで手を振るハノン様が佇んでいた。
――本当に迎えに来たんだ。
「さあファルテシア、帰ろう!」
彼のその行動のおかげで学園内に回り始めた噂はより一層、確固たるものとなるのであった。
●○●○●
「それでな、私はもうそれがおかしくてだな!」
ハノン様は私の隣を歩きながら実に楽しそうに今日学園であった事を喋っている。
私は彼の勢いに飲まれてついつい合わせるように相槌を打ち続けていたが、やはりどう考えても理解できない。
このハノン様は完全に頭がおかしい。
何故急にこんな風に変わってしまった?
確かに頭に強い衝撃を受けた事で考え方とかが変わってしまったのかもしれないが、それでも彼の記憶が無くなってしまったわけではないはず。
「……ねえハノン様」
「ん? なんだいファルテシア?」
「ハノン様は何故昨日から――」
突然変わってしまったのか、とそう尋ねようとした時。
「おい、ファルテシア! 今日は何かやっているみたいだぞ!」
「え、あ、ちょっとハノン様!?」
彼は目を輝かせながら街中の商店街へと私を引っ張り出した。
今日は彼の言う通りこの国の初代国王の生誕祭。
街は様々な催し物や出店で賑わっている。
「見たこともない造りをした建物に幻想的な武器や防具。魔力を利用した様々な魔道具が所狭しと陳列された店々。……はは! すごい、すごいなぁファルテシア!」
ハノン様は無邪気にはしゃいでいる。
まるで無知な子供のように。
「おい、見てみろ! あっちの方から何やら美味そうな匂いがするぞ!? ファルテシア、あれはなんだ!?」
ハノン様が指差したのは串焼きされている、棒状にされたお肉。
「ハノン様、それはミーソールですよ。お忘れですか? 以前にも食べた事はあると思いますが……」
幼かった頃、私は彼と一緒にミーソールをこの生誕祭で食べている。
その事は忘れてしまったのだろうか。
「みーそーる? なんだったか……。とりあえず美味そうだ! 買おう!」
彼はそう言うと、店主にミーソールを二つ頼んで私の分も買ってくれた。
「むぐむぐ……ん!? この味……まさか味噌、か!? だからミーソール!? そうなんだなファルテシア!?」
「ミソ? いえ、これはミーソールというこの国伝統的な食べ物で、特殊なタレをつけて焼いた串焼きです」
「そ、そうか。しかしこれはまごうことなき、味噌ッ! という事はアレか、この世界には麹があるのか!? それならば醤油もあるのだろう!?」
「ショ、ショーユ? と言うのはわかりません。なんですかそれは?」
「醤油とは大豆をベースに塩と麹を用いて作った調味料の事だ。黒っぽい調味料なのだが、ファルテシアは知らないのか?」
「黒い調味料……いえ、聞いた事も見た事もありませんね……」
「そうなのか。……だが麹はある。それならこれは醤油でいち事業を起こせるのではないか……? 米もあれば日本食の再現も夢ではないし、イグナス家で日本食を売りにしたブランドで商ないを始めるという手も……」
ハノン様がまた一人でぶつぶつと何かを呟き出した。
またイセカイの記憶が甦っているのだろうか。
「んん? おお……あれはなんだ!? どうやって浮かんでいるのだ!? 何故あんなにも光り輝いている!?」
今度は宙に浮かんでいる騎士様の彫像を指差した。
「アレは床面に施されている魔法陣に込められた浮遊魔法によって浮かばされています。その魔法陣に光系魔法も付与して灯りを灯しているのです」
「何!? あの光は魔法なのか! そうか……そういえばこの世界に電気、という概念はあまり聞かないな。ファルテシア、電気を使った明かりはないのか?」
「電気は一応ありますが、生産が困難なうえコストが高すぎるので魔法や魔力で明かりを灯しておりますね。ハノン様のお屋敷の明かりもそのほとんどは光魔力による光球が使われているかと思いますよ」
「なんと、そうだったのか。そうか……そんな風になっていたのか……」
ハノン様はやっぱりおかしい。
まるで本当にこの世界の人ではないかのような発言の数々。彼はハノン様の記憶もある、と言っていたはずなのに。
「それじゃあアレは……!」
その日はしばらくハノン様と生誕祭で盛り上がる街中を二人で巡った。
ハノン様の声もお顔もお身体も、全ては前と変わらない。
それなのに彼は中身だけが完全にかわってしまっているように感じる。
……でも、そんなハノン様と一緒にいる事が楽しくもあった。