1話 婚約者から嫌われていた
――彼の頭がおかしくなってしまうよりも更に昔の事。
私、ファルテシア・エルザーグはしがない男爵家の娘だった。
父のウェル・エルザーグは自分の親ながら、貴族にしては人の良い性格をしていて交友関係も広かったが、その甘さにつけ入れられ、多額の借金を背負わされていた。
そのせいもあって我が家はいわゆる貧乏男爵家という下流貴族にはよくある名ばかりの貴族ではあったが、それでも贅沢はできないもののなんとか生活は成り立っていた。
そんな父と私の婚約者であるハノン様の父君である大貴族の公爵、ガノン・イグナス閣下は古くからの親友という事で私の物心が着く前から、私たちの婚約関係は勝手に決められていた。
とはいえ、私とハノン様は幼い頃は普通に仲良しだった。領地も隣り合わせで屋敷間も歩いて行ける距離だった為、互いの屋敷へ遊びに行ったり来たりする事も頻繁にあり、毎日声が枯れるほど喋りあって、遊んでいた。
「おい、ファルテシア。見てみろ私のこの魔力を」
「わあ、ハノン様、すごい! 私にはそんなにたくさんの魔力は練れないですわ」
「なに? この程度の魔力も練れないのか。全く、情けのないやつだな。私の魔力を見てよく学んでおけ」
ハノン様は多少傲慢で強引なところもあるけれど、それも彼の魅力なのだと思い込んでいた。
婚約者、というのがまだよくわかっていなかったその頃までは。
二つ歳上のハノン様が12歳になり多くの貴族らが通う事となる王立魔法学園へと私より先に通うようになってから、少しずつ私たちの関係は変化していった。
少し前までは必ず毎日、何をするにしても一緒に行動する事が当たり前だったのだが、彼が学園に入学してからは日を追うごとにそれがあからさまに減少していった。
「今日は友人と約束があるから」
「今日は魔法学の実施授業で疲れ切ってしまったから」
「今日は父上と領地の事を勉強しなければならないから」
初めの頃はそんな言い訳が多かった。
確かに魔法学園に入学すると魔法学など新たな勉強の幅も広がる他、特に男子は剣術武術に関しても多忙になっていくし、更に公爵家の令息ともなれば交友関係も大切に育み、領地経営についてもたくさん勉強しなければならないのは事実だ。
それでも私はたまにはハノン様とお話しがしたかったので、暇を見て彼のお屋敷へ遊びに行ったとある日。
「なんだファルテシア。何の用件だ?」
「あ、あのハノン様。今日は休日ですし、久しぶりにご一緒に野原へお散歩しながらお話しでもいかがかと……。私、ハノン様のお好きなクッキーも焼いてきたんです!」
「散歩……はあ。すまないが私は忙しいんだよファルテシア。そんなくだらない用事なら帰ってくれ。わかるだろう? 私が今多くの事を学ばなければならない大事な時期だという事くらい」
「は、はい。ですから最近はこちらへあまり来ないようにしておりました……」
「全く……。わかっているなら今後も弁えて、控えてくれ。それではな」
そんな風に彼からは冷たく突き放されてしまった。
だからそれからは彼のお屋敷へ遊びに行く事もやめた。迷惑を掛けてはいけないと思ったからだ。
私はそんな風に考え、多少胸の内に引っ掛かかる気持ちはあっても強引に納得していた。
私だってあと二年経てば同じ魔法学園に入れる。そうすればまた前みたいに学園の中でたくさんお喋りができるようになるはずだ、と。
しかし私も12歳になって同じ魔法学園に入学すると、彼があからさまに私から避けるように行動しているのを感じさせられてしまった。
ハノン様には仲の良いご友人がたくさんいたので、それに割り込んでいくのは失礼だと思い遠慮していた。
彼がひとりの時を狙ってこちらから声をかければ多少はハノン様も話し相手にはなってくれるかと思ったが、そういうタイミングで声を掛けても、
「今、忙しいから」
そんなよくわからない言葉を残してすぐにどこかへ行ってしまった。
私は意を決して、ハノン様のいる教室を訪ねに行き昼食を一緒にどうかとお誘いしてみた。するとハノン様からは「上級生の教室に直接来るなど無礼だぞ。それに学園ではあまり話しかけないでくれ。人の目があるだろうが。常識を弁えろ!」ときつく冷たく突き放されてしまったのである。
正直言えばかなりショックだった。
それでも彼にも学園内での立ち位置や体裁というものがあるのだから仕方がない、と無理やり納得しようと思っていた。
だがとある日、学園内で話すハノン様の友人たちの声を聞いてしまった。
「ハノンの婚約者、相当に鬱陶しいらしいね」
「同じ学園生になったらいきなり教室に押しかけてきたとか」
「その子、ハノンがもうとっくに別の子を好きな事、知らないのかしら」
「リエルタだっけ。ハノンの今の本命の彼女。確かにリエルタはめちゃくちゃ美人だしスタイルもいいもんなあ」
「おまけにリエルタは公爵家の娘だろ? 下流貴族の娘のファルテシアなんかと比べたらそりゃリエルタを選ぶよな。幼馴染のハノンに振られたらファルテシアはどう思うんだろ」
「まあ近いうちにわかる事よ。ハノンはあんなうざったい男爵家の娘との婚約なんか絶対解消してやるって前々から豪語していたから」
薄々は勘づいていたけれど、その事実を知ってしまった私はその場で力無く崩れ落ち、相当に心を折られ、その晩は枕を散々に濡らした。
私は彼の気持ちがとっくに私から離れてしまっていた事をとても寂しく思っていた。
この事を直接ハノン様から聞こうと、その翌日に彼の姿を見つけ声を掛けると、
「ファルテシア。キミは少々めざわりだ」
そう、言われた。
こうして彼との接点がどんどん無くなっていくうちに、これはもう修復のしようもないのだろうなと諦めかけていた。
こんな状態ならさっさと婚約を解消してもらいたいとさえ思うようになっていった。
立場上、彼の家柄の方が遥かに格上なので私の方から別れ話を切り出すのは大変に失礼だ。
どちらにせよ彼は別の女子と交際する為に、彼の方から何かしらの理由をつけて婚約破棄を申し渡してくるだろうと考えていた。
そんな状態が三年近くも続き、私が15歳、ハノン様が17歳となり、私たちはもはや婚約者であった事すら忘れ掛け、学園内外問わず隣をすれ違っても、もはや目すらも合わさなくなった頃。
「ファルテシア。話がある。今日の昼間、テラスで食事をしよう」
本当に久しぶりに彼の方から声をかけられ、そう誘われた。
一瞬だけ。ほんの一瞬だけ嬉しくなってしまった気持ちを持った自分が恥ずかしかった。だってこれはどう見ても婚約破棄を申し渡す為の話し合いなのだと理解したから。
彼の冷酷な瞳がそう告げていたのだから。
そしてその日、事件は起きた。