10話 出来た婚約者様
「ファルテシア、これを見てくれッ!」
ハノン様は意気揚々と一品の料理を私の前へと差し出す。
今日はハノン様にお呼ばれして、私は数年ぶりに彼のお屋敷へ遊びに来ていた。
私とハノン様の仲がまた昔のように戻った事をハノン様のご両親も嬉しく思ってくれていたみたいで、彼らからも暖かく迎えいれてもらえた事にまずは安堵した。
しかしなぜ呼ばれたのかはわからなかった。
ハノン様は私を驚かせたいから、と言って昼食を食べずに来て欲しいとお願いされ、今、イグナス邸の食卓にてこうしているわけである。
「あの、ハノン様。これは……?」
「これは私と私の家のシェフが共に作り上げたポークソテーだ。ちょっと食べてみてくれないか?」
確かに香ばしく美味しそうな匂いが漂う見事な焼き加減のポークソテーがそこにはあったが、驚かされたのはそこにかけられているタレだ。
なんだろう、この真っ黒でサラサラなタレは。
毒……ではないと思うけれど。
「……あの、ハノン様。これは食べても大丈夫なもの、なのですよね?」
「もちろんだ!」
彼は凄くニコニコと屈託のない笑顔を浮かべている。
私は意を決してナイフで肉を刻み、黒いタレのついたそれをフォークで口へと運ぶ。
「……ッ! これは……」
はしたなく咀嚼したまま思わず言葉を発してしまったけれど、そのお肉に付けられたタレが香ばしくて甘じょっぱくて、とても美味しかったのである。
「どうだファルテシア!?」
「はい。とても美味しいです」
「そうか! 良かった、やはりこの世界でも醤油は美味しいと思われるんだな!」
「あ、これがもしかして以前ハノン様が仰っていたショーユというタレなのですね?」
「ああ! それは醤油に砂糖やみりんを混ぜて甘辛く仕上げてあるんだが、悪くないだろう?」
「はい、とっても美味しいです!」
「肉を食べ終えたらその皿に残されたタレをパンに付けて食べてみてくれ。それも美味いぞ!」
これは本当に美味しい。
食べた事のない味だったけれど、あまりの美味しさに次々と手を伸ばしてしまう。
しかもこのタレにパンをつけてみても、実に美味しい。
「……凄く美味しかったです。ハノン様、ご馳走様でした」
「ふふふ、ファルテシアに気に入ってもらえたならきっと皆も気にいるはずだ。私はこれを商会に持ち込んでイグナスブランドとして売り込むつもりだ」
「きっとこれは大人気になりますわ!」
「それだけじゃないぞ、まだ他にも案があってだな……!」
それからハノン様は私に新しい料理の話を次々と語り始めた。
そのどれもこれもがこの世界では見た事も聞いた事もない斬新なものばかりで、私には理解の追いつかない部分もあったが、ハノン様がとても楽しそうだったので、私もなんだか楽しくなっていた。
頭がおかしくなってしまってからのハノン様は、とても楽しくて、とても優しくて、とても人が出来ていて……。
これは夢幻なんじゃないかって。
辛い思いをし続けた数年間の私が見ている夢なんじゃないかって、不安になるくらいに。
そのくらい、私は今、幸せだった。
●○●○●
ハノン様の頭がおかしくなってから、約二ヶ月ほどの月日が流れていた。
ハノン様は父君のガノン様と共に先日開発した新たな調味料の独占販売を主軸とした商いを展開しようと、日々忙しそうに動いていた。
また、学園内でもこれまでの交友関係を大事にしながらも、次々に新たな友人を増やしている。
それも彼の頭がおかしくなったせいで、異様に人あたりが良くなったからだろう。
何せ私の親友のスフィアですら、そう言うくらいなのだから。
様々な付き合いも増え、彼は以前よりも多忙になっているのにもかかわらず、必ず、毎日、絶対に私に会いに来てくれる。
休日は新事業の立ち上げ、ショーユの大量生産に関する計画書などをまとめてみたりしながらも、合間に私に会いに来る。
特に用はなくとも、必ず会いに来て、お話をして帰っていく。
そして……必ず愛を感じさせてくれる。
と言っても「好き」とか「愛してる」とははっきり言ってくれないのが少し引っかかるが、彼が私に愛情を向けてくれている事はよくわかる。
こんな日々がずっと続いて欲しいと思うと同時に、やはりはっきり好きと伝えてもらえないもどかしさもある。
婚約関係なのだから愛を囁く必要がないと思っているのだろうか。
私とハノン様は本当に将来結婚できるのだろうか。
そんな不安はまさに卒業パーティの日に全てわかる事になる――。