山姫と桜精・其の一
やっと話が動き始めました。
東熊山に籠ってからの富嶽の生活は大体以下の通りである。
五時半に起床、注連縄を張った大桜に向かって拝詞を唱えてから、煮炊きを始めて朝食。それから正午過ぎまで四十キロある丸彫りの木剣を用いた型稽古。昼食後は足腰の鍛錬も兼ねて山を一周しながら山頂の御社へ参拝、帰って日が傾くまで素振り一万回の後、山荘内で夕餉を採って読書に耽り、就寝前に観音経を唱えるといった具合だ。
特に観音経は物心つく前から子守歌がわりに聞かされてきた。
神仏と自然への崇敬の念を忘れるなという母の遺言であり、彼岸にいる人との絆でもあったのだ。
「忠太! 何勝手なことしてくれてんの⁉」
さて三日後の午後一時を過ぎた頃、樹上で過ごす時間が多いと、穏やかでない場面に出くわす機会が増えるものだと思った。
琵琶湖に通じる水堀で囲まれた一帯は大里逗家の敷地で、東熊山も麓の屋敷も悪遮羅明神社もその中に含まれる。庭の社殿を、悪遮羅信仰が村人にも膾炙するにつれて開放した経緯があり、樹齢九百年の大桜にのぼれば、大里逗本邸と境内をまとめて俯瞰できた。
程よい広さの境内では、神木の立派な桜と祇怨閣と称される三重の塔がとりわけ目を引いた。神木は山の大桜の実生木で、大桜自体を境内に移そうという話もあったらしいが、畏れ多いという理由で取りやめになった。
鉄筋コンクリート造りの高楼のほうも、また色々といわくつきの建築物なのだが、今富嶽の関心は、雑木の中で揉め事を起こしている四人の人間へ向けられた。
「立場わきまえろ小間者が!」
若い女と二人の男がもう一人を責め立てている。
責められているほうは詰襟の学生服を着て皮のリュックを背負った男子だ。顔は見えないが、後ろ姿だけで大望の碧眼さんであることを富嶽は感じ取った。
かわいそうに木を背にする形で退路を絶たれ、罵声を浴びせられるままだ。
(今度は山奥で恐喝だろうか?)
のんきな感想を抱いていると、バシッと平手打ちが飛んだ。
「誰がおまえに用意しろって言ったあ!」
(これはいかん)
昨日よりも迅速に救いの手を差し伸べることにした。
富嶽は袖の中にさまざまな道具を忍ばせている。ささっと鉛筆で懐紙に走り書きをし、苦無の柄尻に結びつけて飛ばす。
風を切る音がして、女は髪の毛を乱暴に引っ掴まれた気がした。
「あいたっ⁉」
「ア、アンジュさん! あれ!」
片岡安珠の長い髪が杉の幹に縫い留められている。
短剣投げも富嶽の得技で、手首の捻り加減一つでカッターにもスクリューにもなる。回転しながら飛来した苦無は安珠の髪を絡めとって杉に命中したのだ。
「誰? 誰が投げたのよ!」
暗器を抜いて三人組は強気に周囲を見回すが、すっかり浮足立っている。
「何か手紙……?」
苦無の柄の輪に紙片が結わえられている。広げてみて内容に戦慄した。
――今度同じことをやったら当てる。片山富嶽――
「ヒーッ!」
大女の脅威も生々しい昨日のことだ。安珠がひきつった悲鳴をあげ逃げ出すと、二人の仲間も転げるように退散した。
詰襟服の少年は何が起きたかは理解しかねるようだったが、とりあえず危機は去ったので、リュックをしっかり背負い直してから歩き始めた。
案の定、こっちへ来る。富嶽は舌なめずりをした。
「若先生、若先生いらっしゃいますか」
「いらっしゃい」
濃紺の袴からのぞかせた素足をぶらぶらさせて、古木と一体化したような姿で樹上から声をかけると、十四、五歳ぐらいの少年は枝に座る富嶽を見上げた。
「初お嬢様の代理で伊良忠太と申します。本家からの御言付けに参りました」
「聞きましょう。どうぞこちらまで」
「木の上ですか?」
「見晴らしいいですよ。立ち聞きされる心配も低い。高い所が苦手でしたら下りてきますが」
「いいえ、そこでお待ちください」
伊良忠太はリュックの重さをさほど苦にもせず、案外器用に幹を登ってきた。
「お、よく上ってこれましたね」
「こう見えて軽業も仕込まれております」
富嶽は初めて明るい陽射しの下で相手の顔を見ることができた。
その一瞬、呼吸が止まった。
(お、おおっ……)
初めて経験する種類の衝撃だった。
体の真芯を疾風が走り抜けていったにも等しい。
少年は美しかった。美男と見当はつけていたものの予想を超える美しさだ。
前髪を眉の上で一直線に切り揃え、耳をはっきり出して、襟足は長過ぎず短過ぎずの独特なおかっぱ頭。それが詰襟の制服と不思議なまでに相性が良く、少年の中の少女美とでも表現したくなる絶妙のハーモーニーを奏でている。
碧眼という西洋人的な特徴を備えながら、そこはかとなく醸し出す〝和〟の趣。
その違和感の出所を富嶽はしばしの逡巡の後に見出せた。
肌の色だ。大桜の周囲に敷かれた花屑と同じ色、かろうじて人間の目で知覚可能な限りなく真白に近い薄桃色が頬を染めている。
桜の精霊だ、この子は。
「若先生?」
「えっ……? ああ、失礼」
少年の声で我に帰った。呆と見とれていたようである。
「やっぱり、あなたが来てくれたんですねえ」
しみじみとした口調で言うと、伊良忠太は意外そうに首を傾けた。
「私のことなどご存じなのですか?」
「ほら、あなたが私の背後を取ったじゃないですか」
「あ、あのときは、とんだご無礼を!」
「いいです、いいです、いいんですよ!」
枝上でに平服しそうになるのを素早く制した。
「謝るのはこっちです。あなたを傷つけなくてよかった」
これほどの美しい顔を頭巾もろとも立ち割ったりしていたら償いようがなかったところだ。
不愉快な夢に悩まされる日々で発見したオアシスともいうべき美貌を損失させずに済んだことに富嶽は心から安堵した。
「そんなことより、さっき絡んでいたのは片岡さんたちでしたね」
「見てらしたのですね」
少年がきまり悪そうに視線を落とす。
「恥じることなど一切ありません。おおかた八つ当たりで昨日の失敗の責任をなすりつけられていたところでしょう。ああいうことがよくあるのですか?」
「いえ……たまに……少しだけ……よく……」
歯切れの悪い返答は、何より雄弁に半ば日常的な行為であることを語っていた。
「初さんも、あの人たちを放置しておくなんて困ったものですな。さっきも警告にとどめず、肩ぐらい抉っていても良かったかな」
「五一がいてくれたら、若先生のお手をわずらわせることもなかったのですが」
「五一とは、初衣さんの側仕えの子でしたかな」
「私ともども京都でお嬢様の学校生活をお手伝いしている子です。口が減らない上に余計なことにばかり鼻がきくからまわりも迷惑しております。今日も私と二人でここをお訪ねする予定だったのですが途中で雲隠れしてしまって……」
消えた相方へ恨みを向ける横顔が、梅味の飴玉のマスコットキャラクターみたいで、この上なく愛くるしい。
「おかげで私の見せ場が作れました。ささ、もっとこっちへ」
大きなお尻を枝先のほうへずらす。自分ともう一人の重量はきついかもしれないが、そこは長年の風雪に耐えてきた巨木ゆえ我慢してもらおう。
「失礼致します」
行儀よく、つくねんと富嶽の横に腰かけた。
ただし間にリュックの中身である大きな紙袋をはさんで。
「初お嬢様からの陣中見舞いです」
もっと密着して座ってほしかったのに、身代わりみたいに紙袋を押しつけられて少々がっかりであるが、距離が詰まると相手とのサイズ差がよくわかった。
伊良忠太の身長は150センチ強といったところか。
初よりはやや大きく、自分と抱き合えば黒々したおかっぱ頭は胸のあたり。体重に至っては三分の一以下であろう。
「どうぞ中をご覧になってください」
言われるまま袋を開けてみると、漂う甘い香りにささいな不満は吹き飛んだ。
果物がいっぱい詰まっていた。バナナにマンゴー、洋梨にパイナップルまである。
「これは良いですな。春の山で南国情緒を満喫できるとは」
「若先生は果実を好まれるとお聞きしたので、山中で自生しているものより熱帯産のほうがお喜びになるかと市内まで買い出しに行ってきました」
「猿みたいに柿や山桃を齧ると言っていたでしょう?」
「はい、まるで類人猿だと……いえいえ!」
あわてて否定するこの子をぎゅっと抱きしめたい衝動にかられた。丁寧語で話すところも馬が合う。まさに自分のために誂えられたような男子ではないか。
彼が言うなら、例え死ねゴリラと言われても許す。魔界へ帰れ女夜叉と言われても最高の誉め言葉と受け取ろう。
「あの、本家からの通達をお読みしても良いでしょうか」
「や、肝心なことを忘れる所でした。私の悪遮羅姫継承についての条件は?」
「お聞かせ致します」
少年は懐から折り畳まれた書状を取り出し、堅苦しくも澱みなく読み上げ始めた。
「――通告、明日の深夜零時に本家が指定する武勇を示せ。一柳町立図書館旧館に出没する〝赤い毛布〟の問いかけから生還、他の怪異をも同時に平定せよ。片山富嶽がこれ等を果たし終えた時、悪遮羅姫の襲名と中道剣の所有の認可、並びに今後の動向に一切の関与をせぬものと約束する――」
富嶽は嬉しそうに膝を打った。
「本家の方々はお優しい! 明日後には帯刀して下山できるのですね」
「喜んでいてよいのでしょうか。私の口からは言いづらいのですが、お嬢様も本家分家の方々もいざとなったら何をなさるか。プロの暗殺者か猛獣、妖怪の類が館内に待ち受けているかもしれません」
「そこは皆様、私の力量をわかってらっしゃる。もはや尋常の勝負では私には太刀打ちできぬゆえ妖の者にぶつけてみることを試すつもりでしょうが、化け物退治なら経験があるのですよ。帰ったら初さんに伝えてください。富嶽が罠を張るなら二重三重に張り巡らして、強の者を選りすぐっておけと生意気なことを言っていたとね。それから、あなたと昔のように遊びたがっているとも」
「かしこまりました。では若先生、また後ほど」
「はい、ご苦労様でした」
木から降りた少年を見送ってから、富嶽は唇を噛んだ。
(……しまった)
明日の晩の怪談制覇につきあってほしいと頼むつもりだったのに。
ここで自分が動かねば人死にに繋がるという事態に出くわせば反射的に行動できるのだが、一旦タイミングをはずすと次の機会を作るのが苦手だった。
つまりは腕っ節のわりに弱気に陥りがちなのだ。
父の不在に加えて、彼女の中に確たる行動の指針が根付く前に母が亡くなったことが原因であったかもしれない。
誰か背中を押してくれる、というほどでなくても良い。軽く肩を押す、いや触れるだけで富嶽の眠れる情熱を喚起させるスイッチになり得たのだから。
惜しむらくは、それに適任たる旧知の友と今は敵対関係にあること。いっそ悪遮羅の座など返上しようかとさえ考えたが、もはや遅きに過ぎた。一度とことんまで闘り合わねば、この絡みもつれた友情は清算できまい。
(彼も、まんざらでもなさそうだったのは自惚れかな……?)
助けてくれた人以上のものを感じてくれても罰は当たらんじゃないか。
いやいや、愚痴は言うまい。彼は本家のお嬢様にお仕えする身だ。女性が一人で住む場所へ長居するのは外聞が悪いと遠慮してくれたのだ。
(でも、初さんのお世話をしているのなら、女性の部屋に入るのも慣れているでしょうに。やはり、私みたいなゴツい女を恐れているのか? 駄目だ駄目だ! また愚痴っぽくなってる!)
図々しいようで僻みっぽい小心者、自分は腕が立つだけの引きこもりだ。
木を下りて、根元に立てかけてあった木剣を取った。自己嫌悪を振り払うには稽古に没頭するに限る。
昨夜の夢では、鬼女が襲った村は明らかに日本、それも琵琶湖のほとりの村であった。鬼女は地球に来ていたのだ。となれば、鬼女の同胞の再度の襲来に備えて対策を練っておかねばなるまい。
かねてより研究中の我流剣法の練習を始めることにした。
所々に残花をとどめるのみの大桜は、ぼろぼろの着物をまとい両腕を広げた女巨人のようで、岩より固い樹皮といい、夢の鬼女に見立てるのにちょうど良い。
どう料理してくれよう。すれ違いざまに腱を斬って足を奪うか?
ジャンプして横一閃? それとも唐竹割りで真っ二つ?
「ほおおおおお! 悪遮羅流奥技・大山鳴動……」
「若先生」
両腿の筋肉が膨張し、奇声をあげた刹那、後ろから呼ばれて鋼鉄の心臓が跳ねた。
忠太が戻ってきたのだ。ちょっとだけ訝しむような目つきをして。
「何をなさっているのですか?」
「あ? これですか? ただの日課です日課」
一般的な意味での羞恥心が希薄な大女も、外宇宙からの巨大怪物用の必殺技を編み出すためと口にするのは、何となくはばかられた。
「忠太くんこそ、またどうして? 何か忘れ物でも?」
「今日は、少し帰るのが遅れても大丈夫なのです」
「遅れても? ああ、伝えるべきことを伝えたら即帰ってこいとは厳命されてないと」
「はい、ですから……」
「お話しましょう! さあ、今度は庵の中へ!」
富嶽は狂喜して少年を山荘へ招いた。